古都奈良の和カフェあじさい堂花暦

「準備中」の札のかかっているドアを祖母は何の躊躇いもなく開けた。

ちりりん、と可愛い音がする。
見ると入ってすぐのところの天井から、紫陽花柄の風鈴がぶら下がっていた。


「あ、すいませーん。今日は昼は二時からで……」
言いながら奥から出てきた人を見て、私は「うっ」と固まった。

藍色の作務衣の上に黒のカフェエプロンをつけたその人は、昨日、猿沢池のほとりの階段のところで会い、お説教じみたことを言われたあの男性だったのだ。

思わずうつむいて顔をそらしたが、彼は私には目もくれずに

「あれー、千鳥さん」

と嬉しそうに祖母に声をかけた。

「来てくれたんですか? 今日はお稽古の日だって沢野さんから聞いてましたけど」

「そう。その沢野さんから言伝預かってきたんよ。今日、ちょっと来られんようになったって」

「ええっ!?」

「妊娠中の娘さんが入院することになったんやて。せやから今日だけやなくてしばらくは来られんと思うわ」

「うわ~、マジか……」

男性が額に手をあてて天井を仰いだ。

「まいったなー。これから夏休みで書き入れ時だってのに」

祖母がふふっと笑った。

「聞いたで。またバイトの子辞めさせたんやて?」

「人聞き悪いなー。俺が辞めさせたんじゃなくって勝手に辞めたんですよ。むこうが」

「せやかてまたキツイこと言いよったんやろ」
「そんなことないですって。ひどいなー。千鳥さんまでそんな」


祖母と男性はこの店の常連なのか、それともご近所付き合いがあるのか随分と親しそうに話していた。

「あー。それより今日どうしよっかな。さすがに俺一人じゃ中とフロア回せないよなー。閉めるしかないかな」

男性はこめかみをかきながら、本当に困ったように言った。

「閉めるって、もう今日の仕込みは済んどるんやろ。どうするん?」

「まあ、そうですけど今日のところは仕方ないです」

「今日のところって……沢野さんしばらく来られへんで。明日からしばらくお店閉めるん?」

「いやー……、そういうわけにもいかないんで急ぎでバイト探して。まあ今はどこも求人多いみたいで、うちみたいなとこにはなかなかすぐには応募もないんですけど……」

「分かっとるくせにせっかく来てくれた子を簡単にクビにするんやな」

「だからクビになんかしてないって……」