その夜は眠れなかった。何度も何度も、エレベーターの中での出来事が蘇る。佐伯さんの唇から漏れ出る空気の波が私の唇に触れて、あとちょっとで触れそうだった、あの瞬間だ。
漫画の中ではたくさんのキスシーンを見てきたし、何度も想像してきたけれど、実際はどうなんだろう。本当に触れたら、どんな感じなんだろう。
結構な寝不足で、ふらふらと出社した。まだ週の半ばだなんて、信じられない。毎日がジェットコースターみたいで目まぐるしい。
私が席に座ると、山本さんがやってきた。昨日姿を見られてないだろうかと、落ち着かない。
「おはようございまーす」
山本さんが爽やかな声で挨拶する。
「おはようございます」
私はペコッと頭を下げた。鈴坂さんたちも「おはよう」と次々と挨拶する。
「塩見さんって、不思議な人だよね」
山本さんが何を思ったか突然言いだした。
「何なに?」
鈴坂さんが椅子に座りながら、目を輝かせて言った。すると山本さんが「高級マンションに住んでるの」と内緒の話をするように声をひそめる。経理部の女子たちが、その内緒話を聞こうと身を乗り出してきた。
「ここから5分の、ほら高級スーパーが一階についてタワマン。あそこに住んでるんだって」
私は冷や汗が出てきた。佐伯さんがどこに住んでいるか、全社員に知れ渡るのも時間の問題じゃない?

