「……え?」

翔の足が止まる。椿の言った言葉が信じられない。しかし、頭の中でその言葉はぐるぐると回っている。

「……翔くん?」

美桜が心配そうな顔で、翔をのぞき込む。

「何でもない」

そう言い、翔は美桜たちから離れた。

怒りがこみ上げてくる。もし目の前に蓮がいたら、翔は迷わず蓮を殴っていただろう。

「……あの嘘つき」

そう言い地面を睨みつける翔の顔を見て、誰もが目をそらした。



帰りのホームルームが終わると、翔はかばんを掴み、足早に廊下を歩いた。

朝起きた時は図書室に行こうと考えていた。しかし、蓮のピアノの音を聞くのが嫌で、翔は逃げるように家に帰った。

部屋は、いつも通りだ。最低限の生活用品しかない寂しい部屋。

今までそれに満足していたはずなのに、今は翔はなぜか寂しく感じた。

現実から逃げられるものを、自分は何も持っていないーーー。それを誰かから突きつけられた気がした。

蓮には歌とピアノが、美桜には手話が、椿には演劇がある。しかし、翔には何もない。

考えれば幸せになっていた美桜のことも、今考えるとつらい。翔の大嫌いな男に笑顔を向けていると思うと、胸が苦しくなっていく。

甘いものは、どこにもなかった。苦く、果てしない苦しみが翔の胸に広がっていく。

目の前がぼやけて、翔は慌てて別のことを考えようとする。しかしそう思えば思うほど、涙は翔の頰を濡らしていった。

気がつけば、翔は声を殺して泣いていた。



重く苦しい時間と、甘く幸せな時間はいつも突然訪れる。

そんな想いと闘いながら、一月も終わりを迎えようとしていた。

「この本もおすすめだよ!」

その日の昼休み、翔は美桜と図書室を訪れていた。美桜のおすすめの本を借りるためだ。