しんと静まり返った神田堂に、菜乃華は一人佇む。土間には菜乃華と瑞葉の本だけ。奥の居間にも、今は誰もいない。蔡倫は菜乃華の集中力を削がないようにと出て行った。呼ばれたらすぐに駆けつけるとのことだが、すべてを任せてくれているのだと思うと、少しうれしい。

 家にも、今晩は帰らないと連絡を入れてある。「瑞葉が大変なの」と告げると、母は何も訊かずに「頑張れ」とエールを送ってくれた。

 これで、後顧の憂いはない。目の前の作業だけに集中できる。
 目を閉じて、心を落ち着けるように大きく深呼吸する。頭へ十分に酸素が回ったところでゆっくりと目を開き、修復を始める。

 落ち着いてよく検分してみれば、瑞葉の本が負った破損は派手だが、ほとんどページの破れのみだ。トータルで見ると大きな破損と言えるけれど、一つ一つは菜乃華でも修復可能な傷である。
 そうとわかれば、話は早い。まずは本を分解するところからだ。菜乃華は千切れたまま引っかかっている綴じ糸を取って、糊を溶かしながら表紙を外した。

『和装本は、表紙の下でも別に綴じを行うものだ。故に、完全に分解するには、本の角に付いている角裂を取り、中綴じの紙縒りを外さなければならない』

 瑞葉の教え導く声が、頭の中に蘇る。菜乃華はその声に従いながら中綴じを外し、中身である本紙を一枚ごとにばらしていった。

 几帳面な瑞葉が保管していただけあって、本を構成する和紙は江戸時代製とは思えないほど良好な状態だ。加えて、菜乃華にとっては有り難いことに、本は薄くてページ数もそれほど多くない。おかげで、事故でついてしまった傷に気を付ける以外は、特に問題なく分解することができた。

「これも、瑞葉が教えてくれたおかげだね」

 分解し終えた本を前に、苦笑しながらふっと呟く。

 和装本の分解と再製本は、瑞葉がどこからか仕入れてきた本を使って、幾度もこなしてきた。プロの修復家には及ぶべくもないかもしれないが、迷いなく作業を行える程度の経験値を得ている。その経験をまさか瑞葉の本の修復で活かすことになるとは思わなかったが、きちんと学んでおいて本当に良かった。

 ともあれ、分解が完了したなら、いよいよ本番だ。
 修理に使う和紙から喰い裂きの短冊を作り、破れた部分をつなぐように貼り付けて、毛羽立たせた和紙の繊維を馴染ませていく。

『できるだけはみ出さないように、焦らず、ゆっくりと。これを忘れるな』

 初めての仕事でクシャミの文庫本を直していた時に、瑞葉が掛けてくれた言葉だ。仕事の度に何度も唱え続けてきた教えを、ここでも実践する。

 一つ一つ、丁寧に。時間が掛かっても、きっちりと。
 瑞葉を助けたいという気持ちを込めて、傷を一つずつ修復していく。

 夜は更け、もうすぐ日付が変わりそうだ。ここまで飲まず食わずで、休憩もろくに取っていない。
 けれど、集中力はまったく途切れることがなかった。まるで自分の体じゃないみたいに、ハードワークを悲鳴も上げずにこなしてくれる。後が怖いが、今は自分の体に感謝だ。

「ん? これ……」

 それは、最後の本紙の修復に移った時のことだ。菜乃華はそこに古い修復の痕跡を見つけ、手を止めた。

 少し不格好だけど、きっと一生懸命直したのだろうと思える修復の形跡だ。夕方の話に出てきた三百年前につけてしまったという傷かとも思ったが、それにしては痕跡が新しいように思える。

 その時だ。菜乃華の胸に、何とも言えない不思議な感情が芽生えた。この感情を一言で表すのなら――懐かしさだろうか。
 まるで吸い寄せられるように、修復の跡を手でなぞる。乾いた糊と和紙の手触りに、菜乃華の奥に眠る記憶が反応した。

『わかった、やくそくする! あたし、――になる!』

 ふと頭に響いた幼い自分の声に、菜乃華が弾かれたように顔を上げる。同時に、顔を覗かせた記憶は、また心の奥へと沈んでいった。
 しかし、間違いない。今のは、夏に瑞葉と出会った時に見えたのと同じ記憶の断片だ。

「今のって……」

 前髪をくしゃりと掻き上げ、記憶の奥を探ろうとする。菜乃華にとって、その記憶はとても大切なものであったように感じるのだ。

 ただ、すぐに自分がやるべきことを思い出し、菜乃華は意識を戻すように思い切り首を振った。今は修復に集中する時だ。思い出しかけた記憶は気になるが、そちらは後回しでいい。

 筆を握り直し、次の修復場所に目を向ける。自分がやるべきことに集中し、菜乃華は修復を再開する。
 ほどなくして、表紙を含め、破れた部分はすべて補修することができた。修復した本紙はすべてプレス機にかけ、平らなまま糊が乾くようにしてある。
 ここでようやく菜乃華も小休止だ。凝った肩を回し、疲れた目をマッサージしておく。

「瑞葉、もう少しだけ待っていてね」

 頬を叩いて、もう一度気合を入れ直す。

 糊が乾いたところで本紙をプレス機から取り出し、仕立て直しの開始だ。瑞葉の本を元の形に再製本していく。
 新しく作った紙縒りで本紙を中綴じし、角裂と補修し立ての表紙をつける。

 そして、最後は糸綴じだ。今も本の中で眠る瑞葉を想いながら、一針一針しっかりと本の背を綴じていく。

 さすがの菜乃華も、アドレナリンが切れてきたのか集中力がもう限界だ。疲れが出てきた所為か体はふらつくし、今まで気になっていなかった眠気も一気に襲ってきた。それでも最後の力を振り絞って、糸綴じの仕上げを行っていく。
 綴じ糸が縦横無尽に本の背を行き交い、ついに始まりの位置まで戻ってきた。

「これで……終わり……」

 限界を超えている自分を叱咤しながら、糸を結んで余った分を切る。これで糸綴じは終わりだ。そして、本の修復も完了した。

「でき……た……」

 同時に、菜乃華の意識を保っていた最後の糸も切れた。文字通り、糸の切れた人形のように作業台に突っ伏す。途切れかけた意識の中、菜乃華は直したばかりの瑞葉の本に手を添えた。

 修復に集中していて気付かなかったが、いつの間にか夜の闇は薄まり始めていた。窓の外は、瑠璃色に変わりつつある。

 次に起きたら、きっと瑞葉に会えるよね。そしたら、まずお礼を言わなきゃ。それと、怪我させてごめんって謝らないと。

 困ったように笑う瑞葉の顔を想像し、菜乃華の表情が和らぐ。そのまま彼女の意識は、蝋燭の火が吹き消されるように静かに途切れた。