賑やかな菜乃華たちが去って、随分と静かになった神田堂。居間に残った瑞葉と蔡倫は、のんびりと茶を飲みながら、卓袱台越しに向き合っていた。

「にしても驚きだ。あの頃、オイラがいない間にそんな事件があったとはな」

「まあ、改めてお前に語るような機会もなかったからな」

 蔡倫が水を向けると、瑞葉はお茶をすすりながら澄まし顔で答えた。

「けど、思い起こしてみれば確かにお前さん、ここの店員になってから性格がどんどん丸くなっていったよな」

 ここ五十年の瑞葉を思い返し、蔡倫が呟く。

 蔡倫と瑞葉の関係は、遠く江戸時代からの腐れ縁だ。故に、蔡倫は神田堂の店員になる前の――サエと出会う前の瑞葉のことも、よく知っている。

 サエと出会う前の瑞葉は、本人が語った通り、孤高の存在だった。なまじ高い能力を持っていたことも、ある意味では瑞葉の不幸だったのかもしれない。その能力の高さ故に、彼はほとんどの相手に後れを取ることがなかった。高い理想とそれを実現させる力を持っていた瑞葉は、その生真面目な性格故に立ち止まることができなくなってしまったのだ。

 そして蔡倫には、そうやって突き進んでいく瑞葉を見ていることしかできなかった。止めてやりたいとは思っても、止めることができなかった。蔡倫には、瑞葉を止められるだけの力がなかったからだ。
 だが、今にして思えば、『止める力』なんて必要なかったのだろう。

「私自身、自分を変えたいと思っていたが、実際に変われたのはサエのおかげだな。奔放なサエを見ていたら、常に肩ひじを張っていることが馬鹿らしく思えてきた」

「お前さんにそれを悟らせちまったあたり、あのばあさん、本当に人間にしておくには惜しい傑物だったな」

 愉快と言いたげな口調で、しかしその裏にサエへの尊敬を滲ませ、蔡倫が相槌を打つ。

 そう、『止める力』なんて必要なかった。必要だったのは、ただ一つ。サエのように、友として隣でいつも笑っていてやることだった。そんな簡単なことにも気付けなかったのだから、自分もまだまだ修行が足りないと思う蔡倫だった。
 そんな蔡倫の心情を知ってか知らずか、瑞葉が微笑みながら頷く。

「まったく、お前の言う通りだ。この五十年でサエから学んだことは、数知れない。彼女のおかげで、毎日が充実していたよ」

「そいつは結構なことだ。人生、これ勉強ってな。……って、うん?」

 呵々と笑っていた蔡倫が、ふと何かに気づいた様子で首を傾げる。そのままサルの坊さんは、こたつ布団の上に落ちていたものを拾い上げた。

「どうかしたのか、蔡倫?」

「なあ、瑞葉よ。こいつは、嬢ちゃんのじゃないか?」

 蔡倫が、右手を瑞葉に向かって差し出す。蔡倫の右手に乗っていたのは、クマのキーホルダーがついた鍵だ。
 瑞葉も、このキーホルダーには見覚えがあった。確かにこれは、菜乃華の持ち物だ。きっと帰り支度をしている時にでも落としたのだろう。

「ああ、確かに菜乃華のものだな。仕方ない。蔡倫、少し留守番を頼めるか?」

「なんだ? お前さんが届けに行くのかい?」

「おそらくこれは、菜乃華の家の鍵だ。ここにあっては、菜乃華が困るだろう」

 鍵を懐にしまい、瑞葉が席を立つ。一度決めたら、時間を無駄にしないで即行動を起こす。真面目な瑞葉らしい。

「……本当に変わったね~」

「ん? 蔡倫、今、何か言ったか?」

 不思議そうに訊き返した瑞葉へ、蔡倫は「何でもない」と首を振った。ただ、蔡倫の表情はうれしげだ。
 昔の瑞葉なら、誰かの忘れ物を届けに行こうとなんてしなかっただろう。「注意力が足りない」と、簡単に切り捨てていたはずだ。

 そんな瑞葉が、今では他人を気遣い、心配している。過去語りをしていた所為か改めて思うが、随分と優しくなったものだ。もっとも、今回については単純に菜乃華と二人で過ごす時間を少しでも増やしたいだけかもしれない。それはそれで、瑞葉の大きな変化であることに違いはないが。

 サエといい、菜乃華といい、九重の土地神の血族は蔡倫にできないことを難なくやってのける。本当に、羨ましいくらい面白い一族だ。

「では、行ってくる。蔡倫、後を頼む」

「おう、車に気を付けろよ! それと、嬢ちゃんによろしくな」

 菜乃華たちにしたのと同じように、蔡倫はひょいひょいと手を振る。

 おそらく瑞葉は、遠くない未来に九重の土地神と同じ決断をするだろう。神格を捨て、愛する者と数十年という短い命を精一杯燃やしながら生きていくのだ。
 神にとって神格を捨てることは、二度と後戻りできない片道切符だ。それでも、瑞葉はためらうまい。それこそが瑞葉の望みであり、幸せなのだから。

 友の門出は、蔡倫にとってうれしくもあり、同時に寂しくもあった。
 長く生きた付喪神だって、変わる時は変わる。時には大きく成長していく。瑞葉の背中を見送りながら、蔡倫はそんなことを考えるのだった。