「まずは壊れたクータと寒冷紗を取り除いていこう」

「で、壊れたパーツを取り外したら、本の中身側の背に新しい寒冷紗を貼り付けるんだよね」

「よし、満点の回答だ」

 再び瑞葉に褒められて頬を染めながら、菜乃華は手順通りに修復を進めていく。
 寒冷紗を中身の背に貼り終えると、続いて菜乃華はその上へさらに糊を満遍なく塗っていき、先程作ったクータを手に取った。緊張の一瞬。大きく空気を吸って、息を止める。

「クータがずれたり、傾いたりしないよう気を付けろ。焦らず、丁寧に、だ」

 焦らず、丁寧に。瑞葉の口癖を聞きながら、慎重にクータを本の背に宛がう。きっちりと採寸し、手抜かりなく作り上げたクータは、寸分の狂いもなく中身の背を覆った。上々の出来だ。止めていた息を吐き出し、人心地つく。

 ただ、これで修復が終わったわけではない。続いて、クータの反対側、表紙側の背に混合糊を塗っていく。
 糊を塗り終わったら、背表紙と中身の背の接合だ。クータを貼った中身の背と表紙の背を合致させる。背同士の丸みのバランスは同じだから、綺麗にはまってくれた。

「もう一息……」

「ああ、もう一息だ。次は寒冷紗の接合だ。見返しを少し剥がすことになるが、焦って破かないよう、油断せずにいこう。それができたら、最後にのどの接着だ」

 作業内容を復唱する瑞葉に向かって無言で頷き、菜乃華は作業に取り掛かる。

 慎重に表紙から見返しを剥がし、間に寒冷紗の端を接着して、見返しを貼り直す。これで寒冷紗の接合はOKだ。
 続けて、見返しと本の中身をのどの部分で接着する。これで表紙と見返し、本の中身がすべてきちんとつながった。

「よし。あとは背とのどをヘラで擦って、完全に圧着させるんだ」

「了解」

 瑞葉が差し出した紙とヘラを受け取る。菜乃華は背の装飾が傷つかないように紙で覆い、その上からヘラを使って擦っていった。これで、修復そのものは完了だ。

 最後に表紙の溝に編み棒を宛がい、紙をきつく巻き付ける。本来なら重しを載せて糊を乾かしたいところだが、今回は代替案だ。モリスの方にあまり時間がないようなので、この方式にした。

 菜乃華が紙を巻き終わるのと同時に、モリスの右腕が輝き出した。怪我は無事に治ったようで、モリスは右手を閉じたり開いたりして、調子を確かめている。

「ありがとう、菜乃華殿。おかげで右腕もすっかり良くなった。実に見事な修復だ」

「どういたしまして。明日の朝くらいまでは、紙を巻いたままにしておいてくださいね。できれば本に重しを載せておいてもらえると、なお良しです」

「承知した。では、そのようにしておこう」

 菜乃華のアドバイスに、モリスも柔らかく微笑みながら頷く。その目に浮かぶのは、菜乃華に対する信頼だ。

 菜乃華は、モリスの魂である本の破損を完璧に直してみせた。ならばもう、疑いの余地はない。この紳士の姿をした付喪神は、菜乃華を自分の命を預けられる掛かり付け医として認めてくれたのだ。

「また何かあった際には、ぜひ頼らせてもらいたい。菜乃華殿、これからもどうぞよろしく頼む」

「もちろんです。でも、そんな何かが起こらないことを祈っています。次は、元気な姿で遊びに来てください」

「ありがとう。では、近い内にぜひ立ち寄らせてもらうとしよう」

 菜乃華の言葉に、モリスも呵々と笑って同意する。
 お代を払ったモリスは、「では、また」と会釈をして去っていった。


          * * *


「一件落着だな、嬢ちゃん。店主の仕事も、だいぶ板についてきたじゃねえか」

「菜乃華さん、お疲れ様です!」

 モリスが立ち去り、蔡倫と柊が奥から顔を出した。菜乃華の足元では、クシャミも「な~」とどこか労うような声で鳴いている。

「ありがとう、蔡倫さん、柊さん。どうにかこうにか、モリスさんを失望させずにすんだみたい」

 グッジョブと親指を立てている蔡倫と目を輝かせている柊へ、照れを含んだ微笑で言葉を返す。さらに、その場にしゃがみ込んで、「クシャミちゃんもね」とクシャミの喉も撫でてあげた。クシャミは気持ち良さそうにごろごろと喉を鳴らした。

 そんなクシャミを見ていたら、張り詰めていた緊張感が完全に解けた所為か、ふと軽い眠気が襲ってきた。最近は、気を抜くといつもこうだ。たるんでいるな、と頭を振って、眠気を追い払う。

 そのまま勢いよく立ち上がり、澱粉糊や接着剤のボトルをまとめている瑞葉のもとへ行く。修復が無事に終わったこともあって、その足取りは軽かった。

「瑞葉、今の修復、どうだった?」

「そうだな。一言で言えば、練習の成果がよく出ていた。モリスも満足していたようだし、出来としては文句なしの合格点だ」

「ありがとう。ちなみに、今後に向けての課題は?」

「強いて課題を上げるとすれば、やはり手際か。背幅の測量からクータの作成までは、慣れればもっと短時間で行える。修行を始めて一月半と考えれば十分だが、まだまだ無駄をなくして改善していける余地はあるだろう。あとは糊の塗布量についても、経験をさらに積めば適量を見抜けるようになるはずだ」

 淀みなく答える瑞葉を見上げ、思わず顔をほころばせてしまう。瑞葉はただよくやったと褒めるだけでなく、菜乃華が店主としてステップアップしていくための課題もしっかり示してくれる。瑞葉が自分のことをきちんと見てくれていることが、菜乃華にはこの上なくうれしいのだ。

「あ、片付け、わたしも手伝うね」

「頼む。私は資材などをしまっておくから、小皿と筆を洗ってきてくれ」

「了解!」

 軽く敬礼のようなことをして、修復に使った小皿と筆を手に取る。

 その時だ。菜乃華の視界が、急に暗転した。

 小皿と筆が手から離れ、床に落ちる。土間に落ちた小皿が割れる音が、どこか遠くから聞こえてくる気がした。
 気が付けば、体の左半分にひんやりと冷たく硬い感触がする。光を失いかけた目に映る灰色の光景から判断すると、どうやら土間に倒れてしまったらしい。

「菜乃華!」

「おい、嬢ちゃん、どうした!」

「な、菜乃華さん!?」

 鋭い瑞葉の声、慌てた様子の蔡倫の声、動揺しきりな柊の声。三者三様の声が、先程の小皿が割れた音と同じく、遠くから聞こえてくる。

 程なくして、体の左半分にあったひんやりとした感触がなくなった。代わりに、力強く温かい腕が、菜乃華を支えている。覚えのある温かさと力強さだ。誰が自分のことを支えてくれているかを悟った菜乃華は、安心したように微笑みながら意識を失った。