額に当てられた冷たく、濡れた感触で目が覚めた。
「ごめんなさい、起こしてしまったかしら。」
心配そうな顔で覗き込むのは見覚えのない女性だった。
「誰だよおまえっ!」
目の前にあった手を振り払い、体を起こす。一瞬目眩がしたが、そんなことはどうでもよかった。辺りを見渡すと、ボロいソファに寝かされていたようだ。殺風景な部屋にやけに無骨で重たそうな大きな鉄の扉が目に付いた。額から落ちたタオルがズボンを濡らした。額に当てられたのはどうやらこれのようだ。
「えっと、覚えてないかしら。」
整った顔の女性は困った顔で俺を覗き込む。なぜここに居るのか、全く記憶がない。—そもそも、なんの記憶もないことに、ようやく気がついた。
「……じゃあ、改めて自己紹介するわね。私はツォンミン。貴方はインが—えっと、黒髪でツリ目の背の高い男ね。今は席を外してるけど。—が連れてきたの。だけど君、熱があったみたいでね。とりあえずソファに運んで寝かせていたの。……何か思い出した?」
「……何も。全部覚えてない。」
ツォンミンは心の底から心配そうな顔をしていて、とても嘘をついているようには思えなかった。それに、俺のこともよく知らないようだ。そのインというのが戻るまで詳しいことは分かりそうにない。
「よいしょっと。あれ、起きたの君。」
鉄の扉の開く、重たい音と、鉄臭さと生臭い匂いとともに現れたのは黒髪にツリ目の、背の高い男だった。彼がインなのだろう。たしかにうっすらと見覚えがあった。ああ、とか、んん、だとか、軽く唸りながら少し考えると、なにかを扉の奥に置いて、高い机の裏にある窓を開ける。涼やかな風が部屋に入ってきた。
「ねえイン、この子ここにきた前後のこと、なにも覚えてないみたいなのよ。」
「へえ、そりゃまた難儀だね。ただでさえ自分の名前も覚えてない記憶喪失だっていうのに。」
結局誰も俺のことはよく知らないようだ。—これからどうすべきなのだろう。そんなことを考えていて、ふと隣を見るとツォンミンの顔はみるみるうちに怒りに染まっていた。
「どうして貴方いつもそういうことを言わないのよ!呑気に掃除してる場合じゃないでしょう!記憶がないなんて不安でしょうに……。ああ、もう、まったく!」
怒られているというのに、物ともせず、インはずっと笑った顔を崩さない。まったく堪えていないのだろう、怒るツォンミンは無視して俺に声をかけた。
「ねえ、君は神様って信じるかい?」
「かみさま?……なにそれ。」
突然の問いかけの意味もわからず答えると、ぼんやりと記憶が戻ってきた。そうだ、確かボロボロで倒れていたところにこうやって俺の顔を覗き込んで、声をかけてきたのだ。その前の記憶はすっかり無いが、ここからの記憶は、ぼんやりと戻ってきた。
「うん、気に入ったよ。」
記憶とまったく同じように笑い、視線をツォンミンに移す。記憶の中で言っていた彼女、とはツォンミンの事だったのだろう。彼女は呆れたような、けれど、どこか嬉しそうな表情を浮かべる。
「今日から君は、私たちの家族よ。」