抵抗する気も起きないまま、男に背負われて連れていかれたのは崩れそうな高い建物だった。灰色の打ちっぱなしのコンクリートは日々が所々入っていて、中の錆びた鉄筋が見えている。背を焼かれるようだった日光も、建物の陰に入ればひゅうと一気に冷える。まだ空気は春の日和だった。建物の点検や掃除はされていないのだろう。歩くたびにじゃりじゃりと砂を踏む音がした。それでも日差しが防げる分、外より幾分まし、という程度だろう。階段を登るたびに、振動が体に伝わる。全身は泥にでもなったかのような錯覚をするほどだるい。指の先すら動かすのは億劫だった。子供とはいえ、そんな人間を運ぶのは疲れるのだろうか。階段を登りきる頃には男の息が上がっているのが分かった。
「着いたよ。今日からここが君の家だと思えばいい。」
玄関に入ると、するりと肩から床へ降ろされ、壁に背を凭れさせられた。辛うじて動かす気力の残っていた目を動かして、部屋の中を覗く。殺風景な部屋に高い机と、大きな椅子。低い机と、ボロボロのソファが見えた。—ちらりと鉄製のいかにも重たそうな扉が見えたが、それ以外はシンプルな部屋だった。お世辞にも清潔感があるとはいえないが、掃除はされているのだろう。建物の廊下とは違い、ほこりや砂が積もっているところはなさそうだ。
「ツォン、ツォンミン!居るかい。」
そういうと、ひょっこりと壁の影から出てきたのは背の高い、整った顔立ちの女だった。
「お帰り、私一人だけ留守番させてどこに—」
目が合うと、そこで言葉が途切れた。一瞬、空気が止まった感覚がした。何かまずいのだろうか。
「ちょっとちょっと、イン。何よその人——って子供じゃない!」
掴みかからんばかりの勢いでインと呼ばれた男に迫った。無許可で人を連れてきて、家族にするだなんて言ったらそりゃあ同居人なら怒るだろう。
「新しい子を迎え入れるってなんで言ってくれないのよ!こっちにだって都合があるんだから!今日の晩御飯豆のスープにしちゃったじゃない!豆よ!豆と塩のしょっぱいスープよ!?」
「別にいいんじゃないの、豆のスープもおいしいよ?」
「そういう問題じゃないのよ!全く、歓迎会に豆のスープなんてしょっぱいにもほどがあるじゃない!もう、今篝に頼んだら猪とか採って来てくれないかしら……。」
「どうだろうねえ、流石に無理じゃないかい?」
どうやら、これは歓迎されているのだろうか。初めこそ迷惑がられているのかと思ったが、会話から察するに突然連れてこられた俺を受け入れることに乗り気なようだ。
「……あっ、ごめんなさい。勝手に盛り上がっちゃったわね。私はツォンミン。よろしくね。貴方は?」
ツォンミンという女はやさしい笑顔を浮かべ、手を差し伸べてくる。名前もわからない、という気力すらもなく、無論手を持ち上げる余裕もなかった。それどころか、目の焦点も上手くあっていないことにようやく気がついた。吐く息も、なんとなく熱い気がする。
「ちょっと、大丈夫?もしかして熱があるの?」
「ああ、そういえば背負ってる時少し体が熱かったような?」
「馬鹿!すごい熱じゃない。ああ、もう、とりあえずソファに運んで!寝かせてあげないと……。」
額に当てられた手がひやりと冷たくて、気持ちがいい。昔にもこんな風に額に手を置かれた気がする。そう、こんな風に心配そうな顔をした女の人がいたような。—香水の匂いが鼻についた。……何を考えていたのだっけ。
「子供体温って奴かと思ってたけど。どうりで。」
俺を抱き上げながら、なにが面白いのか、くっと口の端を持ち上げて、男は笑う。そんな男に怒る女の声が聞こえたが、もうまともに意味は頭に入ってこなかった。まぶたが重たくてもう目も開けられず、そのままじわりじわりと意識が薄くなり、途絶えてしまった。