いつだったか、今日のように電話で呼びされたが仕事で疲れていたため動くのも面倒で無視したことがあった。

しばらく放置していると五分程で震えていた携帯も止まり、やっと諦めたかと安心した俺が甘かった。次の瞬間ドンドンと壁が鳴ったのだ。壁の向こうはあいつの部屋で、すぐにあいつが壁を叩いているのだとわかった。

些か大胆なその行動に唖然としているとすぐに音は止み俺はひとまずほっとした。が、やはり俺は甘かった。遠くでガチャリと音がしたと思ったら、突如鳴り響いた玄関のチャイム。ピンポンピンポンピンポンと止むことのないその音に、俺は二度とあいつからの電話は無視するまいと誓ったのだった。

そんなこんなで、こいつに対し結構なストレスを感じていたわけで、言ってしまえば俺は結構夢中になっていた。
だから、いい歳してやっていいことと悪いことの区別もつかず、おまけに引き際すらも誤った。

「ふぇ……っ」

微かに聞こえた嗚咽にはっと我に返る。
気付けば、俺はハエ叩きの先を、正確にはハエ叩きに載った“それ”をそいつの顔すれすれまで近付けていた。

やばい。そう思った時には遅かった。そいつは全身を震わせながらぺたんとへたり込み、さらに、俯いた顔からはぽたりぽたりと落ちる透明な粒。それを見た瞬間血の気が引いた。

「うぅ…ひっ…く…うぇっ…」

(まじ泣きかよ……)

俺は自身に苛立って舌打ちをする。部屋に戻り“それ”を新聞紙で三重にくるんでそのままキッチンのゴミ箱へ。手早く処理を済ませて再びあいつの下に行く。そして同じ目線になるよう膝を着いて、出来るだけ優しく声を掛けた。

「……悪かった。ちょっと調子にのりすぎた。もう捨てた。大丈夫だから、泣くな……」

自然と幼い子をあやすような言い方になってしまうのは、やっぱり何度見てもこいつの泣き顔には弱いから。

「……なぁ、顔、あげろよ」

ジャージのズボンを握り締める手にキュッと力がこもる。雫は未だズボンと手を濡らしていた。

「ひっ…ぅ…っ」

そっと、下を向いた頬に自身の手をあてがう。触れた其処は泣いているせいか熱を持っていた。
丁寧に、けれどしっかりと頬を包み顔を上げさせようとしたところで、

「やぁっ」

パチンと手が弾かれる。
存外拒絶されたショックは大きいらしく、俺は呆然と弾かれた手を見つめていた。

(俺には触られたくないってか)

溜め息が、出た。

すると俺が怒ったとでも勘違いをしたのか、そいつはびくりと肩を揺らし、慌てた様子で泣いてぐちゃぐちゃに歪んだその顔を上げ俺を見つめてきた。真っ赤な顔には涙の痕が幾つもついていて、嗚咽は止まったようだがその目は依然濡れている。
痛々しい姿を目にして無意識に眉間にしわが寄ってしまい、それは勿論自分に対してなのだが、引き続き勘違いをしたらしいそいつの目が不安に揺れ、溜まった涙が溢れようとしたその時、

「手……洗ってない……」

そいつはポツリとそう呟いた。