振り向いてそいつが部屋の外に出ているのを確認し、俺はじわじわと標的との距離を縮めた。そして真っ白い壁にぽつんと一カ所だけ黒光りするそこへ受け取ったハエ叩きを思い切り叩きつける。バンッと音を立てた後、側面を壁から外さないようにゆっくりとハエ叩きを離していく。“それ”は網の上で仰向けになったままピクリともしない。一撃必殺。

「や、やっつけた?」

後方から、期待と不安の入り混じった声が聞こえてきた。「ああ」と返事をすれば、そいつははぁーと安心したように息を吐き出し「やっぱり持つべきものは頼れるお隣さんですね」なんて実に都合の良いことを言っている。呆れるしかない。

そこでふと、思いつく。あまりにも幼稚すぎていつもなら絶対しないこと。俺はニヤリと口元を歪めると、ハエ叩きに“それ”を載せたまま顔だけを覗かせているそいつへと近付いた。

「え、えぇっ、千石さん……? ちょっと、な、なにを……」

さっきまで小躍りしそうな程緩んでいた顔がさぁっと青ざめていく。

「……なあ」

「なっなんでしょう……」

「今、何時だと思ってる?」

「えっ、えーとぉ……?」

「もうすぐ日付が変わる。こんな時間にひとを呼び出しておいてお礼のひとつも言えないのかよ。俺明日も仕事なんだけど?」

そいつは俺が一歩進めば一歩後ずさり、真っ青な顔には引きつった笑みが浮かんでいる。
俺は心の中でせせら笑いながらハエ叩きを突き出し、さらに足を進めた。

「ひっ」

「つうかさぁ、何で鍵開いてるわけ? 俺言ったよな、戸締まりはちゃんとしろって」

「そ、それはその、今日はたまたま忘れてて……」

「……へえ。あんたこの前もそう言ってたよな。なに、あんたん家は鍵掛ける習慣がないとでも?」

ついに背中が壁にぶつかり「あっ」と短く声が上がる。追い詰められたそいつはせめてもの抵抗と言わんばかりに目の前の“それ”を見ないように顔を背けぎゅっと目を瞑った。

「っ、やめて下さい……っ」

弱々しい声が鼓膜を揺らす。
壁にピタッと隙間なく背中をつけた状態で、そいつは請う。

この時、俺は確かな愉悦を感じていた。いつもいつも俺の都合関係なく害虫駆除のためだけに呼び出されるという日頃の鬱憤を、こいつの苦手とする虫でこいつを苛めることで晴らそうとしていたのだ。