アクリスに案内された部屋は先ほどの部屋とは全く違う、とても雰囲気の良い部屋だった。広さは少しだけ小さいようだが、深く美しい深紅のソファーが目を引く、華美過ぎず地味過ぎない部屋だ。
「…素敵ですね」
部屋を見ましてマリルはアクリスへと視線を向けた。
「気に入って頂けましたかしら?もし気になることがあれば遠慮せず仰って下さいね。お部屋も狭いようでしたら他の部屋へご案内致しますわ」
決して狭くない部屋なのだが、王宮の中では小さい部類に入るのだろう。マリルは顔の前で手を振った。
「このお部屋で充分です。…というか、もっと狭い部屋でも、何なら使用人の方と同じ部屋でいいのですが」
「それは難しいと思いますわ。マリル様はお兄様の婚約者ですし、シープネスの皇女殿下で在らせられますもの。それ相応の待遇をさせて頂かなければ」
マリルがシープネスの皇女であることをどれ程信じているのか、その笑顔からは推察は出来なかった。曖昧に笑うとマリルはアクリスに頭を下げた。
「ご丁寧に恐縮でございます。感謝申し上げます、アクリス皇女殿下」
「まぁ、皇女殿下などと他人行儀な呼び方なさらないで下さいな。私は『様』呼びしておりますのに……あっ、もしかして、私、馴れ馴れし過ぎましたか?お気を悪くされていらっしゃいますか?」
アクリスは焦り、マリルに心配そうな視線を向ける。何か恐ろしいことでも見つけてしまった子供のように不安げな瞳がマリルを見つめた。
その姿さえ、絵になる。まるで夢のような気持ちがする。むしろ、これは夢でマリルは本当はあの森の家の自分のベッドで寝ているのではないだろうか。とりとめもなくそんな事を考えている内にマリルは知らず知らずに無言でアクリスを眺め続けていた。
「…や、やっぱり怒っていらっしゃいますか…?」
今にも泣き出しそうな顔と声音が、マリルに現実を突きつけた。はっとして意識を戻したマリルは焦ってアクリスに首を振った。
「いえ、そんなことありません。どうぞお好きな呼び方をして下さい。なんなら『様』もなくても構いません」
マリルとしては自身が皇女と認められることはない筈だから、一般庶民と同じ立場のつもりだ。使用人と同じなのだから、『様』などいらないと言ったつもりだったのだが、アクリスは少々違う意味にとったようだった。
「まぁ!嬉しい!まるで本当の姉妹になれた気分ですわ。…私、ずっと親しくできるお義姉さまが欲しかったんですの。これからどうぞよろしくお願いしますね、マリル。あ、もちろん、私のことも『様』も『皇女殿下』もつけずに呼んで下さいね」
にっこりとアクリスは微笑む。この花も恥じらうような満面の笑みを目にして断れる人間はどのくらい存在するのだろう。少なくともマリルはその立場の人間ではない。後ろめたい気分を感じながらマリルはぎこちなく頷いた。
「こちらこそ宜しくお願いします……アクリス」





トリイの誕生パーティーは滞りなく終了した、とマリルは翌日部屋に現れたアクリスから聞いた。主役が途中退出し、いきなり曰く付きの姫が婚約者に現れたそのパーティーのどの辺りが滞りなく終了したのか、マリルにはわからない。
それでもその日から一週間経った今でもシープネスの使者は現れなかったし、トリイが、マリルがシープネスの皇女である証拠を掴むこともなかった。
日々は穏やかに何事もなく過ぎているように思える。
この二週間は至れり尽くせりの生活でマリルとしては手持ちぶさただが、アクリスがしばしば訪ねてきて話相手になってくれている。そのおかげでマリルも塞ぎ込むことなく過ごせていた。
誰もいないあの家がどうなっているのかは敢えて考えないようにしていた。

「…マリル、今少し宜しいかしら?」

ドアからひょっこりと顔を出し、アクリスが現れた。普段は午後に訪れるのだが、今はまだ午前中だ。珍しいと感じつつ、マリルは頷いた。
「もちろん。どうかしたの?」
日に日に打ち解けたアクリスとは既に敬語で話してはいない。一度敬語を外してから、これではまずいと言い直したマリルにアクリスは例の潤んだ瞳でそのまま敬語を外してほしいと訴えた。アクリス曰く、『いずれ姉妹になるのですから、敬語なんていりませんわ。…私も、敬語を使わなくても宜しいかしら?』とのことだった。敬語を使わなくなると、一層親しげにアクリスはマリルに笑いかけるようになった。

それ自体は不快でもなく、むしろ喜ばしいことだが、いずれここを去るつもりのマリルは複雑な気持ちが心に残っていた。

「もしよければ、これから街へお出かけしない?…お忍びで」
アクリスはマリルに近づくと内緒話のように唇を耳に寄せた。
「街に?…お忍びって…どういうこと?」
「もちろん、本当のお忍びではないの。護衛の騎士だっているし、二人きりではないわ。ただ、大袈裟にぞろぞろ遠くまで行くのではなくて、ちょっと城下町を覗くだけ」
「アクリス、あなた手慣れているようね?」
悪いことをしている気はまるでない様子のアクリスをマリルは多少呆れを含めて見つめた。アクリスはイタズラが見つかった子供のように、はにかむように笑う。
「…多少の経験はあるの。でも危険な目にはあったことがないし、気晴らしにはうってつけだと思うわ」
その気晴らしがアクリスにとってのものでなく、自分を気遣ってのことだと思い当たりマリルは苦笑した。塞ぎ混んでいるつもりはなかったのだが、周りからはその様に見えているのだろう。
「…わかった。では気晴らしに、私に城下町を案内してくれるのね?」
「もちろんよ。きっと楽しいわ。そうと決まったら着替えて行きましょう」
心底嬉しそうにアクリスはマリルの手を引いてドアを出で行った。