会場を出たマリルはどこをどう通ったのか分からぬままにトリイに連れられてどこかの部屋に入っていった。
部屋は広く華美ではないが質の良い調度品がいくつかと、飴色に艷めく机と赤い背もたれの椅子が置かれている。クリーム色の絨毯に一歩足を踏み入れてドアを閉めるとトリイはマリルにソファーに座るように示した。
「…私は家に帰りたいのだけど」
「家に帰る?できると思っているのか?…シープネスの姫であることが世間に知らされた今でも?」
「それはそっちのせいでしょう?」
「…何も話すなと約束しただろう」
怒りを吐き出すような溜息を出した後、トリイは飴色の机に軽く腰掛ける。それは王子ともあろう者がするには少し行儀の悪い振る舞いと言えた。

「…私は家に帰りたいの」

小さいがきっぱりとマリルは言い切る。それからトリイを見つめた。
「私の素性が知れたことであの家には帰れない。そんなことわかってる。あなたがこの話を持ち掛けてそれを承諾した時から予想できた。…あなたは私を利用した。だから私もあなたを利用した、それで平等でしょう」
静かに淡々とマリルは言う。
「…初めからそのつもりで?」
「シープネスの姫だという動かぬ証拠が手に入ったのなら大人しくしているつもりだったわ。…でも、そんなもの手に入れられなかったでしょう?」
解りきったことだと言わんばかりの言葉にトリイは眉を上げた。
「確かに苦戦している。…が、その話はしていない。どうしてわかる?」
「手に入っていれば、さっさとそれを提示する筈でしょう。その方が問題は少ないもの。…それから、もう一つ。シープネスの王宮が取引に応じる筈ないのよ」
マリルはまるで祈るように両手を組み合わせ、顔の前に持ってきた。ぎゅっと手を握り、眉間にシワを寄せ、苦しそうに一度目を閉じる。
その姿は自身を捨てた生国を案じているようにも恨んでいるようにも見える。
「マリル=シープネスは生きていては都合が悪い人物なの。だから私がシープネスの皇女だった証拠は出てこないし、シープネスの人間もそんな証言はしない。私は自称シープネスの姫のまま、あなたの婚約者をいつまで続けられるかしら。…それでもいくらかの時間稼ぎは出来る。その間にあなたは権力者として力をつけて、それから私はまた元の生活に戻る。…あなたの最初の目的と何も変わらない」
「…そして公の場でシープネスの姫ではないと示されれば晴れてただの娘として生活できる。今までのようにシープネスの追っ手から逃げまくる必要もなく」
トリイの言葉にマリルはふっと微笑む。静かで寂しげな微笑みに見えた。
「そう。そして私は家に帰って穏やかに暮らす。それだけでいい。家に帰って静かな生活をする、それだけが私の望みよ」
マリルは静かに、けれど強い意思を滲ませた声で告げた。トリイを見据えたまま、目を反らすことなく。





部屋の中の沈黙を破ったのは外からドアをノックする音だった。
マリルは自身の望みを告げた後、一言も発することなく、微動だにしなかった。漆黒の瞳は手元を見ているが、それは遠い過去を振り返っているようにトリイには見えた。トリイはそんなマリルを少しの間眺めて、溜息をつくと、きちんと机に座り直し目を閉じた。愛用の椅子の背もたれに体を預け、これからについて思案する。
考える必要のある事柄は途切れることがなかった。

コンコン

2回ノックがされた後、返事も待たずにドアは開けられた。
そちらに視線を向けたマリルは現れた人物に目を瞬かせた。
そこにいたのは先ほど会場で出会ったアクリスである。

「お兄様、どうして勝手に…」

非難めいた視線と口調で足を踏み入れると同時にトリイを見たアクリスはそこにマリルがいることに気付き、あんぐりと口を開けた。
「…まぁ!マリル様、いらっしゃったの?」
驚きを隠せない顔でマリルを見つめるとアクリスはさっきよりも怒った顔をしてトリイを睨み付けた。
「お兄様!どうしてマリル様を客室に案内しないの!いくら婚約者と言ったって、まだ結婚もしてない男女がこんな夜遅くに一緒にいるべきではないでしょう!しかも、こんな暗い部屋で!」
照明は充分過ぎる程ついているし、この部屋は決して暗くはない。そうトリイが返すとアクリスは更にいい募る。
「そういう暗いではありません。私が言っているのは、こんな地味で野暮ったい、華やかさの欠片もない、お兄様の自室ではなくて、もっと美しい、マリル様に似合いそうな部屋に通すようにと言っているのです!」
「少し話をしただけだ。直ぐにお前のいうその華美な部屋へ案内する」
「華美ならいいってものではないのですよ!…お兄様の見立てたお部屋なんかでは、心配ですわ。私がご案内致します!」
会場で出会ったあの大人しそうな雰囲気はどこに行ったのか、アクリスはトリイに向かって捲し立てるとくるりと視線をマリルに向けた。その瞬間、彼女はにっこりと笑う。それは噂通りの見目麗しの笑顔で。
「…マリル様、お兄様に何もされておりませんわよね?何か失礼な事や発言でお気を悪くされておりませんか?」
心底心配そうにアクリスはマリルを覗き込む。恥ずかしくて花も萎れてしまうだろうその顔は確かにトリイと似通ったところがある。
どうして、直ぐに気づかなかったのだろうと、マリルは赤面した。
ダカールに姫がいたのは知っていたし、年の頃もよく見れば顔だって似ているところがあるというのに。
自分の至らなさにマリルがますます恥じ入って赤面すると、それを勘違いしたのか、アクリスはまたもや兄であるトリイを睨みながら振り返った。
「お兄様!何かなさったの!?」
悲鳴にも似た声でアクリスは叫ぶ。
「…そんな訳ないだろう。だが、もし仮にそんな事になったとしても、何も問題ない。なにせ婚約者だからな」
これにはマリルの方が焦った。
なぜ火に油を注ぐような事を言うのだろうか。否定だけで終わればいいのに。
案の定、アクリスは更にヒートアップしてトリイを責め立てている。可愛らしいその姿で今にもトリイに掴みかからんばかりだ。
「…あ、あの、アクリス皇女殿下。何もされておりません。ただ、話をしただけですの。こんな夜更けにみっともない事をしてしまい、申し訳ありません」
美人は怒ると怖い、とは確かにその通りのようだ。恐る恐る言葉を紡ぐマリルにアクリスは『あっ』と声をあげると、一気に潮らしくなった。まるでパンパンに膨らんだ風船が針で刺されて萎むようにしゅんと肩を下げる。
「…こちらこそ、みっともない場面をお見せしてしまい申し訳ございません。…その、私がお部屋にご案内致しますわね」
幾分、バツが悪そうにアクリスは言う。それに頷き、マリルはトリイの自室だというその部屋を後にした。自室には疲れた顔をしたトリイのみが残った。