『お姫サマは王子サマの迷惑にならないようにしてる。王子サマのことが大切だから』
シロの言葉をトリイは頭の中で再生する。
その言葉をどこまで信用していいのか、トリイにはわからない。それでもここへ来たのは、もう一度話をする必要があると、トリイが考えたからだ。
決してクロとシロ、更にはアクリスを始めとするマリルに関わった人物達から急かされたからではない。そうもう何度目かわからない程、心の中で思い直し、トリイは古びた教会の中へと入って行った。





その古びた教会は古いながらも堅牢な作りで、座席数も多く、草臥れてはいるが座れないという程、座席も汚くない。簡素な木でできている座席には今は誰もいない。恐らく休日には周辺の住民が集まり、神に祈りを捧げ、その後は暫しの歓談を楽しむのだろう。
平和なことだと思う。
トリイにはそんな時間を楽しむ余裕はなく、脇目も振らずにここまで駆け抜けてきた。その事に後悔はないが、そのせいで人の感情、機微、関係の構築といった部分には未だに苦手意識がある。
マリルはどうして出て行ったのか、正確な所はわからない。それでもシロの言葉を信じるならマリルの行動は自分を嫌ってのことではない筈だ。それを拠り所にトリイはわざわざ隣国の田舎の小さな教会までやって来た。

マリルがこの教会にいると調べあげたのはクロの手柄だ。
隣国の姫であるリリハにマリルが話を繋いだことにトリイは驚いた。リリハと連絡を取れるとは思ってもいなかったし、そんなことは絶対にないと思っていた。しかしながらマリルはリリハと連絡を取り、リリハの支援のもと、この教会までやって来た。
女同士の強かさと裏をかく行動にトリイは驚いた後、思わず笑ってしまった。
『してやられた』と、舌を巻いた。さすがは二人とも一国の姫である。マリルに至ってはよく国外まで来れたと感心までした。伊達にシープネスから逃げた経験があるわけではなかったということだろう。
うつらうつらと考えるうちに、トリイの瞼は下がり、数分後にはその目は完全に閉じられた。





マリルがその日その教会に来たのは夕方近くだった。ダカールを出国し、この教会に来たのはリリハの指示があったからだ。マリルからはリリハに連絡を取ってはいない。リリハからマリルに連絡を取ったのだ。どこまで信用していいのかわからないが、頼る以外にマリルに良策はなかった。
この教会で修道女見習いのようなことをしながら、近隣の村の子供達に勉強を教える。その変化のない退屈で安定の日々をマリルはそこそこ気に入っている。
だからこそ、その日、教会にいた人物にマリルは驚き、狼狽えた。

トリイがいる。国外の田舎の教会の板張りの椅子に凭れて穏やかな寝息を立てるトリイをマリルは二度見し、それからまじまじと見つめた。

「…何故?」
思わず声が漏れる。その声に反応するようにトリイはぱちりと目を開けた。
びくりとマリルは数歩後退る。
それを寝起きの不機嫌さで眺めてトリイはむくりと席を立つ。
「逃げる程か?それほど会いたくないと?」
つかつかとマリルへと近付きトリイはマリルを壁際まで追い詰める。マリルは壁とトリイの間で逃げることもできず身動きも取れない。
静かに、けれども明確にトリイが怒っていることがわかる。勝手にいなくなったことを責めているのだとマリルにもわかる。
マリルはトリイから顔を反らすように俯いた。
「…勝手にいなくなったのは、申し訳ないと思っているわ」
気まずそうに呟いたマリルは何も言わないトリイを見上げる。トリイから責める言葉が出てくるのを待っていたマリルは同じようにマリルが続けるのを待っているトリイに小さく溜息を吐いた。それから暫くお互いに相手を待つ。
先に折れたのはマリルの方だった。
先程までの大人しい様子を一変させてじろりとトリイを睨む。
「出て行ったことは謝らない。私の意思だから」
「何故?」
間髪を入れずに問うトリイをマリルは見つめた。その瞳は怪訝そうにトリイを見ている。
「クロに…あぁ、名前を知らなかったんだった…出ていく数日前に現れた黒い長身の男に出ていくように言われたからでは?」
クロからマリルには自分の名前を伝えていないことは聞いている。クロの特徴を上げた瞬間、マリルはトリイの腕を掴む。
「どういうこと?あの男、知っているの?何かあったの?」
焦った様子でマリルはトリイに矢継ぎ早に質問する。それは残してきた者を心配する姿だ。
「貴方は大丈夫なの?他の人達は?無事なの?」
思わず腕に飛び込んできたマリルをトリイは当然のように受け止める。腕を腰に回し間近にマリルを感じる。その行為は久々の事だ。
「何も変わってない」
「どういう意味?」
「そのままの意味だ。ダカールは戦争をしてないし、王宮にいる人間は誰もいなくなっていないし、変わらず元気だ。心配するようなことは起きてないし、これからも起きない」
しっかりと目を見て伝えるトリイにマリルは安堵する。嘘ではないと信用できる。マリルはほっと肩の力を抜いた。
何故あの男をトリイが知っているのかはわからないが、知っていてそう言い切れる事がマリルを安心させる。
シープネスとダカールは変わらず相互不干渉の姿勢を貫いているのだと確信できる。
「…良かった…」
安堵の溜息と共に呟くマリルをトリイはぎゅっと抱き締める。
途端にマリルは焦りトリイの腕から逃れようとする。
「それから、俺の気持ちも変わってない。だからこそ俺は猛烈に怒ってもいる」
ぐっと腕に力が籠る。それを感じてマリルは動きを止めた。恐る恐るトリイを見上げたマリルを淡々とトリイは眺めている。
「…相談しろ。心配していると前にも言っただろう」
「…ごめんなさい…」
トリイが本当に心配していたのだとマリルは漸く気がついた。しおらしく項垂れるマリルの顎をすくい、トリイはその唇に軽く触れる。
途端に顔を背けるマリルの耳元にトリイは囁いた。
「…本当に嫌なら突き飛ばしてでも逃げればいい。次は追わない」
ぱっとマリルは顔を上げた。その顔を見ながらトリイは続ける。
「シープネスの事もダカールの事も今は考えなくていい。一人の女として答えを出せ」
じっとトリイはマリルを見つめる。その視線を受けてマリルもトリイを見つめた。
自分を振り回す身勝手で傲慢な男。その整った顔を見ながらマリルは自分がまだ彼を愛していると自覚する。自分から離れて修道女の見習いをしながらも、いつも気になっていた存在でもある。
「…好きよ」
ふっとマリルは微笑む。
認めてしまえば楽になる。それを実感してマリルはトリイを引き寄せキスをした。








王宮に戻ってから数ヶ月後、マリルは届いた手紙に目を通した。それはライオネスの教会で修道女見習いをしながら勉強を教えていた子供の内の一人からの手紙だ。
マリルの事情を聞いた彼女の手紙に綴られた文章にマリルは小さく笑みを溢す。
『先生は日陰の家に住んでいたけれど、まるで白雪姫のようです。七人の小人はいないけれど、七人の生徒がいて、死んではいないけれど、王子様のキスでお城に戻っていきました。物語の終わりのように末永く幸せに暮らして下さい』
手紙への返事を考えながらマリルは帰ってきた時のことを思い出す。
駆け寄ってきてくれたアクリスやカイト、安堵して微笑みを浮かべてくれるケイトや、使用人。当初こそ申し訳なさで一杯だったが、今では以前よりも親しい関係になれている。
そしてトリイとはその関係が本日より確固たるものに変わる。

物語のようにマリルはトリイと結婚する。

花嫁として着飾ったマリルは新たな一歩を踏み出した。


おわり