トリイの元にマリルがいないと連絡が来たのはマリルが出て行った日の夜だった。
午後から姿を見たものはおらず、部屋にマリルの荷物はなかった。それをトリイ自ら確認して、トリイは通常より深く眉間に皺を刻んだ。
出て行ったのだと誰の目にも明らかな行動だ。
マリルは既に国境を越えたかもしれない。国境を越えれば行方を探すのは困難になる。どこまで用意周到に準備したのかトリイにはわからない。
わかるのは漸く近くなった距離が手から零れるように遠く離れていることだ。
深々と溜息をついたトリイは突然大きな音を立てて扉を開けたアクリスを驚いて見つめた。
「お兄様、マリルは?いないってどういうことなの!?」
悲鳴のように声を荒げるアクリスにトリイは部屋を示した。
「見ての通りだろう。荷物は綺麗になくなっているし、争った形跡もない。自分で出て行ったと考えるのが妥当だろう」
淡々と説明するトリイをアクリスは睨み返す。
「妥当って、それでおしまい?探さないつもりなの?」
「自分で出て行ったんだ。探す必要なんてないだろう」
マリルがいなくなったのは、昨日の自分の行動が嫌だったからではないかとトリイは強く感じている。あの恐怖とおぞましいものを見る目を思い出してトリイは深く後悔した。多分マリルはここへ帰るつもりなどないし、トリイと顔を逢わせる気もない筈だ。トリイにしても受け入れられないまま、あのまま近くにいるのは辛い。マリルが逢わないつもりなら、そっとしておく方がお互いにいいのかもしれない。
「…お兄様、やっぱり変わってない。自分のことしか考えてない」
じろりとアクリスはトリイを睨む。いつもなら流せる筈のその態度が今は神経を逆撫でする。アクリスはトリイがマリルを押し倒したことは知らないのだし、自分勝手に見えることも理解できる。それでもトリイは昨日の出来事をアクリスに話す気はなかった。
「何も知らない人間が口を出すな」
苛つきを隠すことなくトリイもアクリスを冷ややかに見据えた。意外と気の強い妹は一瞬怯む様子を見せたものの、すぐに反論をする。
「何も知らないのはお兄様の方では?…マリルの気持ちを考えたら探しに行こうと思わないの?」
「考えたから行かないんだ。…子供が口を出すな」
「どうしてそう上から目線なの?そもそも、急にいなくなるなんておかしいでしょう?お兄様、何かしたんでしょう?」
責める口調でアクリスはトリイに詰め寄る。トリイはアクリスから顔を背けた。
「その態度、本当に何かしたのね?」
「うるさい」
「何したの?酷い態度と言葉で傷つけたの?いつ?どこで?なぜ?」
ぐいぐいと迫ってくるアクリスの頭を片手で掴み、トリイはその腕と手に力を込める。
「痛い!図星だからって暴力に訴えないで!」
トリイの手を叩いてそこから逃れ、アクリスは頭を押さえた。それからじろりと先程よりきつくトリイを睨む。
「意気地無し!どうして出て行ったのか、理由くらい聞こうと思わないの?」
「うるさい」
「お兄様がそういう態度ならいいわ。私だけでも探すから、邪魔しないでね!」
大声で喚き、アクリスはくるりと向きを変えた。来るときも急なら帰るときも急に足音を立てて早足に歩き去る。その背を怒りと共に見送り、トリイは部屋へと視線を戻す。部屋には書き置き一つ残っていない。まるで存在そのものを消したいと願っているように、部屋は元通りの姿をしている。それがマリルがいなくなったという現実を奇妙に薄めている気がトリイにはした。
溜息をついて目を伏せ、トリイはふと窓へと視線を向けた。
それは何かが動いた感覚があったからだ。
一瞬、窓の外に黒いものが横切った気がしていた。
トリイは足早に窓辺へ寄り、そこに何者かがいることに気付き、一瞬で警戒心を呼び起こす。
全身の感覚を研ぎ澄まし、何が起こっても対応できるように準備を整える。
トリイは窓へと更に一歩近付き、そのまま勢いよく窓を開ける。
その瞬間、トリイは体を捻る。トリイの体の直ぐ側に鋭利な刃物の光が見える。咄嗟に避けなければそのまま体を刺し貫いていたであろう刃物は、直ぐに向きを変えて第2刃を切った。それを避けてトリイはその刃を握る手を掴む。ぐっと力を入れれば相手もトリイの手を外そうとする。
逃げようとするその手は白く細い女のものだ。
力一杯に手を引き、トリイはその女を窓から部屋へと引き入れ、動きが取れないように壁際に押さえ込んだ。手を背中に捻り上げられ、顔を壁に向けている女は手を捻る力を強くするとぐっと息を飲んだ。

「なんだ、捕まったのか。シロ」

捕まえた女に意識を集中していたトリイは突然聞こえた別の声に顔だけを窓へと向けた。
そこには別の見知らぬ男がいる。押さえている女に向かって話す男はトリイへと視線を向けた。
「用事があったのはお姫サマの方だったんだけどなぁ。あんた、お姫サマがどこにいるか知ってるかい?」
「それはこちらが聞きたい。お前たちは何者だ?」
ぎりぎりと締め上げる腕への負荷を強くする。このまま締め上げ続けたらこの女の腕は折れるだろうが、トリイは得体の知れない人物に情けをかける気はない。
「ああ、そうカリカリすんなって。そのシロはこう見えて意外と有能なんだ。腕折られると仕事に支障が出るから止めてもらいたいなぁ」
どこまで本気で言っているのか掴めないが、その男はニタニタと笑ったままだ。
「まず自己紹介でもしようか。俺はクロ。それから、それはシロ。それであんたはトリイ王子だろ?」
クロと名乗る男は窓枠に腰を下ろす。シロと呼ばれているトリイに押さえられている女は無言でクロを睨んだ。
「そう睨むなよ、シロ。…お姫サマの居場所は王子サマも知らないようだし、お互い協力しようじゃないか」
とても良いことを思い付いたようにクロは両手をパチンと打ち鳴らす。その様子をトリイは無言で見つめた。
「王子サマだってこっちの情報は知りたいだろ?俺達だってこのままお姫サマがいなくなりました、とはいかないんだよ。危害も加えない。お姫サマの居場所さえ分かればいいんだ。王子サマからお姫サマを取り上げることもしない。…悪い話は一つもないだろ?」
クロは、にぃ、と口を大きく広げ、舐め回すように視線をトリイに絡み付ける。ベタベタとしたその視線にトリイはますます眉間に深く皺を刻んだ。
「信用ならない」
クロを一瞥しトリイはシロの腕への負荷を更に強める。痛みにシロが小さく強ばった。
「おいおい、腕折ってくれるなよ。こっちは敵対する気はないって言ってるのに」
ゆっくりとクロは窓枠から部屋へ入り込み、シロを掴むトリイの腕を掴んだ。その手にぎり、と力が加わる。
「お互い穏便にいこうぜ、なぁ?」
顔に笑みを貼り付かせてはいるが、その目は笑ってはいない。じっと睨み合い、トリイはシロから手を離した。
「お、やっと理解したかい。良かった良かった」
ぱっとトリイから手を離したクロは手近にあった椅子を引き寄せる。そこへどっかりと腰を下ろた。
「お姫サマの居所を見つけるまで、仲良くしようじゃないの」
にんまりとクロは笑った。