この国の王子だと名乗るこの男は何を言っているのだろう。
戸口に向かい合ったまま、マリルは困惑しきった様子で忙しなく視線を上下させた。トリイを頭から爪先まで眺めて、今度は逆から、更にもう一度眺める。
上等の絹の服は白く、玄関から入る少ない光にピカピカと輝いている。胸元の金の紋章は確かにタガール王家のものだ。
王家には二人の王子と一人の姫がいる。第一王子は今年22歳になるという。腹違いの第二王子はまだ幼く、3つか4つだと聞く。姫は16歳の、非常に愛らしい容姿の娘だそうだ。
こんな日陰の孤独な一人暮らしのマリルでもそれくらいは知っている。
というか、それくらいしか知らない。
新聞で読んだその程度の知識だ。
当然、面識もない。
マリルが生国でまだ王宮にいた時にも特に関わりはなかった。

それなのに、婚約者とは一体何の事を言っているのだ。

マリルは何度か口を開け閉めし、漸く言った。
「…どう、いう、こと?」
つっかえつっかえ、なんとか口に出す。
驚きすぎて敬語も忘れていた。
そんなマリルをトリイはますます面白そうに見つめてその整った顔で娘達が蕩けるような微笑を浮かべる。
「唐突なお話で驚いたでしょう。訳もきちんとお話します。少しお邪魔して宜しいですか?」
いきなり押し掛けてきて、意味のわからない話を突きつけるくせに、あくまでも姿勢は丁寧だ。そして玄関から奥へはマリルの許可を得てから入ろうとしている。それはこれから無理難題を押し付けるから今は機嫌を損ねないように丁寧に対応していることをマリルにそれとなく伝えている。
玄関口で立ち話をする話ではないことは明らかだ。
断れない状況を作り出して、それを上手く相手の意思によるものにしている。
トリイの交渉はなかなかの手際だといえるだろう。
マリルは渋々ながら、トリイを自宅に招き入れるしかなかった。



マリルの家は一部屋しかない。
その一部屋に小さなダイニングテーブルが一つと、チェストが二つ、それに古いベットがある。
家の見た目同様、部屋の中もあまり日差しが入らないからか、仄かに暗い。ただ毎日窓を開けるためか、換気は行き届いていて、空気は悪くない筈だ。
ダイニングテーブルの向かいにある小さなキッチンでマリルはお茶を作った。庭で植えているハーブを使ったお茶だ。独特の味がするが、他に良いお茶がある訳でもないので、そのままダイニングテーブルへ持っていく。
トリイはその間大人しく座って待っていた。
「…どうぞ。お口に合うかはわかりませんが」
目の前に湯気の立つお茶を出す。
トリイはきちんと礼を言い、お茶を一口飲んだ。その眉間に皺が寄るのをマリルは見逃さなかった。
「変わった味でしょう?特に美味しくはないけれど、慣れれば問題なく飲めます」
「美味しくないことはご承知なんですね?」
「他に美味しいお茶がある訳ではありませんから。事前にご連絡頂ければご用意できたかもしれませんけれど」
美味しくないお茶を飲むのはマリルのせいではなく、事前の連絡もないトリイの自業自得だと言外に含ませてマリルはお茶を啜った。
「それで、先程のお話ですが」
マリルが先を促すとトリイは一つ頷いて話始めた。



来月はトリイの22回目の誕生日だ。
第一王子のトリイに正妻はまだなく、この来月の誕生パーティーが、事実上のお見合いパーティーになるのは自明のことだった。その最有力候補が冷戦状態の隣国の皇族マルチ家の長女、リリハという少女である。彼女はマリルと同じ18歳だというから、年齢的にもおかしくないし、家柄的にも申し分無い。おまけにこの婚姻が決まれば冷戦も一応解消できる。ただ、トリイにとってリリ ハは自分の花嫁、そして王妃としての器には値しないと考える娘なのだ。
「この国では王妃は王の次に権力を持つ。リリハは悪い子ではないけれど、そういった権力を振り回すのが好きなんです。悪く言えば我が儘ですね。しかもいつ隣国のスパイになるかわからない。だから王妃にはしたくないのです」
それなら別の娘を迎えればいいのだが、そういう訳にもいかないらしい。
ダカールには今、王家に次ぐ権力のある貴族は3つある。そしてどの家にも年頃の娘がいる。北部のルリトー家、中部のダドリー家、南部のルーニ家は互いに不仲で正に三つ巴状態である。その内の誰を選んでも国内の勢力争いに偏りが出るのは明白だ。
「国内の貴族はほぼその御三家の派閥にあるんです。派閥に入っていない貴族の娘や、平民と縁を結んでも結局どこかの派閥に最終的に組み込まれるから意味がない」
つまり、隣国はスパイを招き入れるから避けたい、そして国内の人間も派閥に組み込まれるから嫌だ、ということなのだ。
「そんなことを考えていたら誰とも結婚できないのでは?」
「そうですね。私自身がそれらの起こりうる問題に対処できればそれで解決します。それは私も理解しています。ただ、それにはもう少し時間がほしい」
トリイは深い溜息をつく。
彼はそれを父親である王に何度も告げている。だからこそ22になる今まで妻がいなかったのだ。縁談の話が持ち上がり始めて3年間、それで通したが父親は痺れを切らし始めている。
今度の誕生パーティーでは無理にでもリリハと婚約させようとするだろう。
「父としてはリリハととりあえずでも婚約させてまずは冷戦を解消したい筈です。その上で今後時間をかけて私に力をつけさせようとする腹積もりでしょう。リリハも父の手前上、あまりおおっぴらには動けない筈ですし、そうそうスパイにもならないでしょうから」
マリルは全く持ってダカールの王に賛成だ。それで全て上手くいきそうではないか。何故そこで自分が登場しなくてはならないのだ、そう考えていたのが顔にでていたのか、トリイは苦笑した。
「確かにそれで良いのかもしれません。でもそれは確実ではない。私はできるなら不確定なことは避けたいのです。その為に時間がほしい。…そして、あなたと形式上での婚約があれば、それができると思ったのです」
「…つまり私を利用してできるだけ時間を稼ぎたい、それがいつまでかかるかわからないけれど、私にそれを承諾してほしい、そういうことですか?」
「そういうことです。あなたはとても優秀な様で助かります」
にこりとトリイは笑う。
マリルは厚顔無恥とはこういうことを言うのだと思わず感心してしまう。
自分の自由の為に人を犠牲にする、そういう行為を理解して、そういう風に行動できる。
トリイはリリハを権力を振り回すから王妃にさせたくないと言う。けれど、この提案はトリイの言う権力を振り回すことと何ら変わりない。結局トリイもリリハと同じではないか。それなら時間を稼ぐ必要がどこにあるのだ、思う存分トリイも権力を振り回してずっと今まで通り我が儘を押し通せばいいのだ。
「…お断り致します。私など無くてもトリイ王子様であれば十分時間が稼げるでしょう

「私の言い分を通すにも3年以上同じ理由では通らないのです」
「では、その非常に優秀な頭脳で他の理由をでっち上げれば宜しいのでは?」
「…例えば?」
からかうような、興味本位のような表情でトリイはマリルを見据える。
翡翠の瞳に見つめられてマリルは言葉に詰まった。
「例えば…?…そうですね…仮病を使うとか?」
「仮病ではパーティーは休めても婚約はなくなりません。長い病と仮定すればそれこそ縁談はなくなりますが、私は王位を継げなくなる。それは本位ではありません」
「…暫く身を隠しては?」
「それもあまり意味がありません。私がつけたいのは国内外での権力的な力です」
「いっそのこと、全員と結婚しては?一人が正妻、残り三人は側室として」
「ダカール王室は側室をおいておりません。法律で禁じられていますし、例外として三人を側室にしても新たな火種を生むだけでしょう」
「…では、あなたが王位を諦める他ないのでは?」
「それは先程も申しました。私にその考えはありません。…他に具体例はありますか?」
「……ありませんが、提案は承服しかねます」
マリルは一方的に論破された気分で不満を顕にする。トリイはそんなマリルを眺めてつまらなそうにまた溜息をついた。
「こんなことは言いたくありませんが、あなたはこの提案を呑まなければならない筈です。あなたの生国シープネスはまだあなたを探しているのでしょう?」
トリイの発言にマリルは動きを止める。睨むようにトリイを一瞬見て、すぐに手元に視線を戻す。カップの中のお茶はもう湯気は立っておらず、啜るとほんのりと温かい。一口飲んでゆっくりとそれを元の位置に戻した。
「…脅迫ですか?」
微かな苛立ちを込めた声音はいつもより低い。トリイは今度こそ本当に面白そうに目を細めた。
「そうとって頂いて構いません。こちらもそのつもりで来ました」
「…成る程。確かに私はこの提案を断ることはできないようです。非常に不本意で不愉快でもありますが、承諾します」
「それは良かった!あなたが優秀で本当に助かります」
トリイは本当に満足そうに独特の味がするお茶を一気に飲んだ。それがさも美味しいものであるかのように。