夏草の匂いが鼻につく。暑い日差しがじりじりと肌を焼いて怪我をした左肩がじゅくじゅくと傷んだ。
懐かしい夢だとトリイは思う。頭のどこかでこれは夢だと認識しているのにまだ意識は覚醒できないでいる。まだ見ていたいと思うのはもう少ししたらマリルが現れると知っているからだ。


トリイがマリルと出会ったのは3年前になる。あの頃、ダカールは隣国であるリリハの生国ライオネスと争いが絶えなかった。冷戦になる前の最後の一暴れのごとく、戦禍は激しく、トリイは国内外を奔走していた。その最中、トリイは乗っていた馬もろとも崖下に転落したことがある。馬の足が縺れて一気に転落し、一緒にいた衛兵が助けを呼びにいった後、トリイは崖下の沢に転がっていた。
転落の時にできた怪我よりはその前の戦でできた肩の怪我がまた開いたらしい。焼けつくような痛みに眉をしかめてじっと耳を澄ます。
沢の音と風の音、その風に舞う小さなゴミの音。
戦場では聞くことのない音にトリイはどこか安心していた。じっと目を閉じているうちにいつの間にかトリイは深い眠りに落ちていた。



トリイが次に目を開けた時、そこは沢ではなく、どこかの洞窟の中だった。
暗い洞窟には小さな焚き火が仄かな明かりを灯している。パチパチと薪のはぜる音がする。身を起こそうとしたトリイを少女が覗き込んだ。
それがトリイがマリルと出会った瞬間だった。
艶めく黒髪に白い肌が仄かな光の元で自ら発光するように見えた。
マリルはトリイに手を伸ばしそっと額に触れる。ひんやりとした少女の手はトリイの熱を計り、安心させるようににっこりと微笑んだ。
その笑顔がトリイの脳裏に刻み込まれたのは、トリイにとっては至極当然のことだった。
マリルはトリイの瞼を指でそっとおろす。もう少し眠るようにと言葉に出さなくてもわかる仕草だった。何度か慈しむように頭を撫でられてトリイはどこか居心地の悪さを感じながら、もう一度眠りに落ちた。



マリルに会ったのはその時だけだった。
トリイが次に目を開けた時にはマリルはいなかった。変わりに助けを呼びに行った衛兵が他の仲間を連れてきていた。
彼らに助けられてトリイは王宮に戻った。それからマリルの行方を探すように指示したが、マリルの行方は全くわからなかった。
それが半年前、漸く居場所がわかった。
だからトリイはマリルの元へ向かったのだ。トリイがマリルの家を訪ねる前に忍んで見に行った時、マリルはあの森の家の雑草のような植物に水を遣り、それを暫く眺めていた。
その慈しむ横顔にトリイは密かに見入っていた。
あの時の幼さは影を潜め、大人に移り変わろうとしている、その時期にしかない儚さのようなものがマリルの身を包んでいる。
花が綻ぶ前の清廉な初々しさにトリイはぎくりとする。
綻ぶ前の花を一瞬で散らしてやりたい衝動と、いつまでも愛でていたい欲情にトリイ自身が驚いていた。同時に誰かの手に渡るのが我慢できない身勝手な独占欲が出てくることにトリイは一人溜息を吐いた。
傲慢で身勝手だと理解しながらトリイは後日、マリルを訪ねた。
自分を覚えてくれていると少しは期待していたのだが、マリルは全く記憶になく、それにトリイは少なからず気分を害した。女性の独り身で警護もなく一人暮らす状態にも無防備過ぎて腹が立った。
連れてくる口実は特に思い浮かばず、適当な理由でマリルはトリイの婚約者のふりをして王宮に来た。『王宮内で力をつけたい』など、ふざけた理由を本当に信用したのか、『シープネスの姫が追われている』ことを利用した脅迫が効いたのか、それとも別の理由があるのかトリイにはいまいち掴めなかった。それでも手の届く場所にいれば良かった。
本当はもう少しゆっくり攻めるつもりだったのだが、案外もたなかったとトリイは少しだけ反省している。
むくりとベッドから起き上がりトリイは深く長い溜息をついていた。