アクリスの部屋を出たマリルはカイルを尋ねたが、カイルは部屋におらず、結局会うことはできなかった。夕食にもカイルは現れなかった。アクリスに聞いたところによると、カイルは熱があるらしい。昨日外で寝たせいだろうかと、マリルは心配したが、アクリスにやんわりと否定された。
その夕食後、マリルはカイルを訪れることなく自室に戻り、持ってきていた少ない荷物を草臥れた自分の鞄に詰め込んだ。
それはここに来た時と同じ鞄だ。戻るのだと、鞄に荷物を詰め終えた後、急速にその考えが現実味を帯びてきた。
マリルの持っているものはこの草臥れた鞄一つだ。豪華な調度品、立派なベッド、美しい衣服は、全て借り物に過ぎない。
分不相応だったようにしか思えないが、それでもとても良い生活だった。
明日ここを出て行ったら、もう二度と見ることはないだろう。今日はベッドでぐっすり眠ろうとマリルは心に決めた。
「…その前に…」
トリイに会いに行かなくてはならない。
本当は昼間、会いに行けば良かったのだが、どうしても足が向かず結局夜になってしまったのだ。
溜息を吐くと、マリルはトリイの部屋へと向かった。





ノックの数秒後、トリイの部屋の扉が開く。従者が開けたのではなく、トリイ本人がいきなり出て来てマリルは驚いた。
「…夜分にすみません。今、宜しいかしら?」
一拍を置いてマリルはトリイを見上げた。トリイは眉間に皺を寄せてマリルを見ている。
「夜分に一人で男の部屋に来るな」
トリイはとりつく島もなく、扉を閉じようとする。慌ててマリルはその扉を手で押さえた。
「長居しないから!少しだけ、話せない?」
「部屋の外で?」
「…廊下はちょっと…その、どうしても入ってはいけない?」
恐る恐るマリルはトリイに尋ねる。トリイはそんなマリルを数秒眺めて深い溜息を吐いた。
「どうなっても知らないからな」
警告のようにトリイはマリルを見据えた。それから扉を開けてマリルを招き入れた。
「…気をつけます」
部屋の中に入ってくるマリルを見ながらトリイは二度目の溜息を吐く。気をつける気があるのなら、今すぐ出ていくべきなのだが、マリルにその様子はない。警戒心がない上に危機感までないのか、トリイを安全だと思っているのか、マリルの顔からは判断が難しい。
「…で?用件は?」
昨日の事だろうと予想しながらトリイは尋ねる。
「あ、その…お願いがあるの」
「お願い…?」
困ったようにマリルは微笑む。その笑顔がいつもより寂しげに見えてトリイの胸に嫌な予感が起こる。
「昨日の事は忘れて欲しい」
きっぱりとマリルは言いきる。その顔には意思を曲げない頑固さが滲み出ている。
「私はあなたに婚約者のふりをして欲しいと頼まれたの。…本当に婚約者になるのは、荷が重いわ」
にこりとマリルは微笑む。その瞳は揺らぐことがない。意思は固まっているのだとその目は言外に伝えている。
マリルは自分をまじまじと見つめるトリイから視線を反らし身体の向きを変えた。これ以上伝えることはない。扉に手を掛けてマリルはほんの少し振り返った。
「話はそれだけ。本当夜分に申し訳なかったわ」
マリルはカチャリと音をたてて扉を開けようとする。しかしそれは叶わなかった。
ドン、と顔のすぐそばで音がする。
マリルの意思によって開こうとしていた扉は別の手によって再び閉じられた。すぐそばにトリイの身体がある。
一度目を閉じてマリルはトリイを振り返った。
「…どうなっても知らないと、警告はした」
眉間に皺を寄せるマリルの唇にトリイの唇が触れる。噛みつくようなキスにマリルはトリイの肩を叩く。
「…っ…」
息もできないくらいに深く激しいキスに、マリルは泣きたくなる。本当はこのまま受け入れてしまいたいと思う反面、その事が良い結果をもたらす事がないとも思う。
ぎゅっと抱き締める腕の力が強くなる。力強い腕に身を預けてしまえたら、全て話したら、そう思った瞬間マリルはその場にへたり込んだ。
足の力が抜けて座り込むマリルをトリイは抱えあげる。
「なに…」
ポンとベッドに放り投げられてマリルは身を固くする。ベッドが軋む音をたてる。両腕を押さえられて、マリルがもがいても振りほどくことはできない。
「だから夜中に男の部屋なんか来るなって言っただろう」
噛みつくようにトリイはマリルの首筋にキスをする。びくりとマリルは身動ぎする。
「んっ…」
するりと太腿を撫でられてマリルは身がすくんだ。

恐怖に顔を強ばらせるマリルを目にした途端、トリイはぴたりと動きを止める。