明るい日差しが色とりどりの花を照らす。暖かな春の日の午後に庭園で母親が紅茶を飲んでいる。白いテーブルクロスの上には甘いお菓子が鎮座していた。突風がクロスを吹き上げ母の髪が靡く。母の柔らかな膝に駆け寄り、身体ごと抱き締めてもらう。
良い匂いと優しい手に髪を撫でられて安心して眠りにつけると思った。



ぱちりと目を開けてマリルはベッドから起き上がる。久しく見ていない夢だった。寝起きから泣きたくなるような、温かく切ない夢だ。
「…今更夢に見なくてもいいのに」
あの夢は見ている間は幸せになれる。それが起きた途端に悪夢に思える。
あの夢の景色は二度と戻ってこない、過去の夢だ。もう手に入らない欲しくて欲しくて堪らない帰る家の夢は、マリルにいつも現実を突きつける。
マリルの帰る家はどこにもない。
帰りを待つ家族はいないし、最近では戻る家もなくした。
あの小さな森の家はマリルが舞踏会に出た数日後、小火騒ぎが起こり今ではダカール王家監視のもと、憲兵が住み込みで働いている。森の家に特別な思い入れがあるわけではなく、トリイからその話を聞いた時もマリルは特に動揺しなかった。
ただ少し、また帰る家を失ったと残念に思っただけだった。
自分には安定した家は持てないのだろうかと思った瞬間、マリルは思わず呟いていた。
「旅に出よう」
まるで天啓を受けた聖者のようにマリルの頭にその考えは急速に深く染み渡る。
あの男と一緒に行って生きていける保証もなければ、どこに行くのかもわからない。ここに残っても迷惑をかけるだけ。
それならば一人で遠くへ行けばいいのだ。
マリルは元々追われる身だ。ここから出て行っても元に戻るだけだ。
トリイと出会う前に。
「…あぁ…やっぱり夢だったんだわ」
ここはあの幸せな夢の続きと同じなのだ。欲しいものが、自分を受け入れてくれる暖かい場所がここにはあった。
離れる。そのことを考えてマリルは滲んできた涙を指先で拭った。
清潔で質のよいシーツに包まれてマリルは数回深呼吸する。涙を押し殺すために暫く膝を抱え、顔を伏せる。
暫くそうして深呼吸したマリルはふっと顔を上げた。
「行こう」
自分に言い聞かせるように呟くと、マリルはベッドから降りた。






やらなくてはいけない事は沢山はない。
出ていくのは明日にしようとマリルは決めていた。今日はカイルとアクリスに会って、それからトリイへ会いに行こうとマリルは考えた。
トリイには感謝の気持ちがある。それから彼の意外と優しい部分を知れた。それが自分に対しても発揮されたことが嬉しかった。思い出してみれば彼は確かに自分勝手にマリルを振り回したが、いつも配慮してくれていたように思う。
舞踏会でリリハが問い質しにきた時も初めはマリルが矢面に立たないように庇ってくれていたし、ケイトの事故の時もマリルが自分を責めないように上手く立ち回ってくれていた。心配していると言ってくれたのは本当に嬉しかった。
トリイが自分を好きだと言った事も嬉しかった。
けれど、マリルには自分の気持ちが掴めていない。
これから離れる決心をしてこんなに辛いのはマリルがトリイを好きだからなのか、欲しかった居場所を失うのが嫌だからなのか、それともカイルやアクリスと同じ、仲良くなって離れるのが寂しいだけなのか、マリルにはわからない。
トリイを好きだとマリル自身が自覚できないでいる。

つらつらと考えながら歩いていたマリルは到着したアクリスの部屋をノックした。
「…はい?」
扉を開けてアクリスの侍女が顔を出す。マリルを見て彼女はアクリスに声を掛けて退出していった。
マリルは部屋に通され、アクリスの示したソファーへ腰掛けた。
「マリルが来てくれるなんて珍しいわ。…どうしたの?」
嬉しそうにアクリスは笑う。その笑顔を見つめてマリルも釣られて微笑んだ。
「昨日、大丈夫だった?ケイトとは仲直りした?」
「え!えっと…あの…」
ケイトの名前にアクリスは顔を赤くする。アクリスは焦って侍女の用意した紅茶を少し溢した。
「大丈夫?」
アクリスの慌てようにマリルは驚いた。アクリスは何度も頷き、落ち着くように何度か深呼吸する。
「…あの…」
言い淀み顔を俯かせ、アクリスはマリルの耳元に口を寄せる。絶世の美少女の囁きがマリルの耳に届く。
「その、好きだって言ってくれたわ」
「そう、良かったわね」
アクリスは真っ赤になって頷く。その姿は普段のアクリスをより一層可愛らしくみせている。
「私、好きな人に好きって言ってもらう事がこんなに幸せだと思ってなかった。…マリルは?お兄様に好きって言われた?」
「どうして急にそんなことを聞くの?」
「お兄様、昨日様子が変だったから」
「…どこが?」
トリイの様子が変だったとは、マリルは思っていない。トリイはあの後もいつもと変わらず淡々としていた。マリルは昨日、色々な事が起こりすぎて余裕がなかった。早々に与えられた部屋へ戻り、さっさと寝てしまったのだ。
「お兄様のことだから、マリルに気持ちを伝えることなんて、今までなかったでしょう?それを急に婚約者なんて言うものだから、告白でもしたのかと思っていたの。なのに、この前聞いたら『言った覚えがない』だなんて…」
ぶつぶつとアクリスはトリイに文句を続ける。マリルはアクリスを驚いて見つめた。
「アクリス、もしかして私がどうしてここに来たのか知っているの?」
あの森の家でトリイが勝手に事を進めたのをアクリスは知っているのだろうか。アクリスはマリルに見つめられて、悪戯がバレた子供のような顔をする。
「その…詳しくは知らないのよ。ただお兄様が無理矢理押し掛けて、無理矢理婚約者にしたっていうのは、聞いてるの」
アクリスは事の始まりを知っていたのだ。マリルは全身から力が抜ける気分だった。
「黙っていて、ごめんなさい。お兄様とマリルの事だからあまり言ってはいけないかと思って…」
「いえ…いいの。事実だから」
「それで…えぇと、お兄様、ちゃんと言ったのかしら?」
恐る恐るアクリスはマリルを見る。その視線には興味津々な様子が見える。その顔を眺めてマリルの頭に疑問が浮かんだ。アクリスはどうしてケイトが好きと気付いたのだろう。
「…アクリスはケイトが好きなのよね?」
マリルはじっとアクリスを見つめた。アクリスは顔を赤くしたまま頷いた。
「…好きってどこで気付いたの?いつ?なぜ?」
難しい顔をして矢継ぎ早に尋ねるマリルにアクリスは首を傾げた。
「マリルはお兄様の事、好きではないの?」
責めている様子はなく、ただ不思議そうにアクリスは尋ねている。マリルは小さな溜息を吐いた。
「正直、よくわからないわ。そういうことはあまり考えたことがなかったから」
「…では、例えば、お兄様が他の人と結婚するとしたらどう思う?」
「…結婚…」
おめでたいことの筈だ。マリルのことを忘れて他の誰かと幸せな家庭を築く。トリイはきっとその女性を大切にするだろう。慈しんで優しく触れる。昨日マリルに触れた手と、唇で。
想像してマリルはがっくりと項垂れた。
心底、嫌だと思った。
それはつまり、認めざるを得ないのだ。トリイが好きなのだと。マリルは小さく呻いた。
「…マリル…?大丈夫?」
アクリスが焦った様子で聞いてくる。マリルはアクリスに苦笑した。
「…平静ではいられないでしょうね」
小さくマリルは呟く。その言葉は先程の問いに対する答えだとアクリスは気付いて、嬉しそうに微笑んだ。
「そう。良かった。…私はお兄様の妹だから、お兄様の希望が通れば嬉しい。けれど、その為にマリルが犠牲になるのは耐えられないわ。…だから、マリルがお兄様を好きでいてくれたら、きっとそれが一番幸せだと思うの」
アクリスは嬉しそうにマリルを見つめる。それを気恥ずかしく思いながらマリルは立ち上がった。
「話せて良かったわ。そろそろお暇するわね」
「お兄様にマリルの気持ちも伝えてあげてね。とても喜ぶから」
アクリスの言葉に照れながら苦笑し、マリルはアクリスの部屋から退出して行った。