名前も知らない男が出ていくのを眺め、その姿が見えなくなるとマリルはその場に座り込んだ。
身体中の緊張が解けてほぅっと長い溜息を吐く。落ち着くように何度か深呼吸をしてから立ち上がった。これから道順を覚えながらもう一度カイルの所まで戻らなければならない。カイルはまだそこで眠っているだろうかと、マリルは少し不安になる。
警護の固い王宮に、あの男は潜り込んできた。いつの時代のどこであろうと、侵入者は入ってくるものなのだとマリルは過去を思い出しながら考える。



マリルの生国シープネスは現在、女王の統治下にある。
彼女はマリルの生母亡き後に迎え入れられた隣国の姫だった。
義理の母にとってはマリルも自分の夫も邪魔な存在だったのだろう。気付いた時には彼女は女王として以上の確かな権力を持ち、強かに夫と連れ子を蹴落とした。まるで魔女のように、足音もなく背後に近寄って一瞬で邪魔者を消すその手腕は見事なものだった。
王宮での権力争いは珍しくない。
マリルは彼女の行為自体を非難するつもりはない。彼女は彼女なりの理由があったのだろうし、そこで争いが起こった時に負けたのはマリル自身の、そして父親の落ち度だ。

けれど、他国に住んでいる今のマリルには王宮のことなど関係ない筈だ。
義母が今までマリルの居場所が掴めなかった筈はない。
大人しくしていなければ殺すと、威嚇してきているのだ。先程の男を手として使って。
そこまでして殺されなければならない理由があるとは思えない。ダカールはシープネスから遠く離れている。マリルが仮とは言え、トリイの婚約者だと知れたところで今更脅威になどならないだろうに。

「…どうして」
小さく呟く声は風に消える。
少しだけ強く吹いた風に髪が煽られる。
漆黒の長い髪が視界を覆い、顔を伏せたマリルに向かいから声がかかった。

「…何をしてる?」
低い、落ち着いた大人の声。もう聞き慣れた声には責める様子はなく、ただ不思議そうな響きがある。
その声を聞いた途端、マリルは安堵した。
「…何も。散歩していただけ」
声は震えなかっただろうか。安堵して息を吐くのと一緒に緊張も出ていったようなのだが、今度は涙も一緒に出そうになる。
顔が上げられないまま俯き答えるマリルに、トリイは静かに近付いて来る。
一歩一歩近付く距離を足元で確認し、その距離がもう少しになったところで、マリルはくるりと身を翻した。
「…来ないで」
脱兎の如く、一目散に走り出す。
スカートがヒラヒラと揺れて、足にまとわりつく。走る速度に併せて鼓動も速くなる。息が苦しく、瞳から涙が溢れた。
見られたくない。
その強い一心でひた走る。
それでもマリルがトリイから逃げ切るのは不可能に近い。
直ぐに追い付かれてマリルはトリイに腕を捕まれて動けなくなっていた。背中から回されたもう片方の腕はしっかりとマリルを後ろから抱き寄せている。
「放して」
いつも以上に声を荒らげるマリルにトリイは腕に力を込める。
「嫌だ。…落ち着け」
耳元で聞こえる声にマリルはぎゅっと目を閉じる。その瞬間に溜まっていた涙が落ちる。それはマリルを抱えているトリイの手に落ちてしまう。
「…マリル?」
不審そうにトリイはマリルの名前を呼ぶ。心配そうな声音にマリルはこれ以上涙が溢れないように唇を噛む。ぐっと抱え込まれている腕に力を込めるが、腕の力は弱まることはない。
くるりと、マリルはトリイによって反転させられる。
俯き、顔を見られないように咄嗟に手で顔を覆う。
「見ないで」
肩を震わせて顔を覆うと頭上からトリイの溜息が聞こえた。

なんてみっともない、そう思ってもう一度離れようとするマリルをふわりとトリイは抱き締める。マリルの顔はトリイの胸に押し当てられた。
「わかったから。これなら見えない」
優しく抱き締められてマリルは戸惑う。トリイの身体は温かい。その穏やかな温かさは、マリルの心を癒すようだった。