色とりどりの花が風に揺れている。微かに吹くそよ風が花の匂いとほんの少しの冷気を運んでくる。暖かい日差しに照らされてのんびりとした空気が漂う。庭園の木陰で膝の上にカイルの頭を乗せてマリルはその柔らかな髪を撫でた。カイルは疲れてぐっすりと眠り込んでいる。身近に感じる暖かみはこれが現実だとマリルに伝えている。
トリイが言ったように庭園は素晴らしく、まるで夢のようにも見える。
そもそもここにいることが夢のようなものなのだ。手に触れる物も目に見える物も現実でありながら、それは現実感を与えない。
「…偽物だからかしら…」
思わず一人で呟いたマリルの背後から声がかかった。

「偽物なんだ?じゃあ、シープネスの姫さんじゃないってこと?」
ぎょっとしてマリルは背後を振り向く。
そこには背の高いひょろりとした男性がいた。黒い服の袖から細くて大きな手が見えている。背の高さと服の黒さによって異様な迫力がある。
ダカールの人間ではない。彼は味方ではない。
頭の奥で本能がそうマリルに告げている。
この男は何者なのか、警戒し立ち上がるマリルの腕をその男は掴んだ。
「そう警戒しなくてもいいじゃん。少しお話しようか、お姫サマ」
ギリギリと掴んでいる手に力が加わってくる。喉の奥から小さな悲鳴が漏れそうになるのを必死に押さえて、マリルは一度だけ深呼吸する。
「話してもいいわ。でもこの子は関係ないでしょう」
カイルを示しマリルはその男を睨む。彼は今気付いたようにカイルへ視線を向けるとにっと笑った。
「あぁ…その坊っちゃんはそのまま置いておけば?…大丈夫、見ての通り、他に俺の連れはいない。そこに寝かして置いておけば勝手に自分で起きるだろう?」
彼は自分の周囲を示しマリルに辺りに人がいないことを確認させる。確かに一見しただけでは周囲に他に人はいない。どこかに隠れているのかもしれないが、マリルにはそれは見えない。
「なかなか疑り深いねぇ。でもそれは悪くない。何事も疑ってかかるのが大事だ」
マリルの考えを見通しているかのように彼は言う。にやにやと人を試すような笑顔でマリルをじっと見つめた。
「でも俺は先を急ぎたいんだよ。その坊っちゃん、置いていかないなら一緒に連れていくかい?」
「…わかった」
カイルを連れていくことはできない。マリルは座っていた位置へとカイルを戻す。一瞬カイルがぴくりと動くが、特に起きることはなかった。小さな安堵の息を吐き、マリルはその男へと向き直った。
「そう心配しなくてもいいさ。少し話したいだけだよ、二人だけで」
囁くように彼は言う。マリルが逃げないように肩を抱いて歩き出す。
気持ち悪い、と心から思う。
その男に触れられた部分から何かが背中を伝うように背筋がぞわぞわと無図痒い。
身を固くするマリルを引き連れて彼は人目を避けて歩く。王宮を熟知しているのか、迷っているだけなのか判断がつきにくい動きだった。
暫く歩き、王宮の外れまで来た所で彼は足を止めた。
王宮の外壁に凭れかかり、マリルを正面からもう一度見据える。
マリルは漸く離れられたことにほっと息を吐いた。
「その動作、ムカつくなぁ。俺としては随分紳士的にここまでお連れしたと思うんだけどなぁ」
にやにやと笑いながら彼はマリルを眺める。それは商品を品定めでもするような視線だ。
「…お礼を言うつもりはないわ」
少し離れた距離を更に広げようとマリルは後退りする。本当は大声を出したいところだが、そんなことをして誰かが駆けつけてくれるまで無事でいられる保証はない。マリルにできそうなことはできるだけこの男から距離を取ることだけだった。
「せっかくここまで来たんだ。…逃げる前に俺の話を聞いてくれるよねぇ?」
彼はマリルを見据える。その鋭い眼光はこれ以上マリルが遠くに行くことを許してはいない。幾分暴力的な気配を感じ取ってマリルはそれ以上後ろに下がるのを止めた。
「…あんた、なかなか鋭いね。そう、そこが最終ラインだ。それ以上は下がるなよ。こっちも暴力は奮いたくない」
彼は興味深そうにマリルを眺めている。
「俺はお使いでね。…実を言うとあんたを殺すように言い遣ってきてる。…でも、それを知った他の人間がそれは止めるように俺に言ってきてる。俺としてはどっちの命令を聞こうか思案しているってわけさ。特にまだ決めちゃいなかったんだが、あんたを見て決めたよ」
男はにぃと笑みを深くする。その笑みは狂っているようにも正気なようにも見える。
「俺はあんたを殺さないことにする。…但し、ここは出て行ってもらうけどな。3日やるよ。3日後の真夜中日付が変わる時にここに来いよ」
「今すぐ連れて行かなくていいの?…私が誰にも言わない保証なんてないでしょう?」
マリルの言葉に彼は更に笑みを深くする。新しいおもちゃを見つけた子供のように嬉しそうに見える。
「いいねぇ。その頭の良さ、気に入ったなぁ。…でもあんたは言わないよ。俺が誰のお使いでここにいるか、想像できるだろう?…ここの王子サマはあんたにご執心のようだし、あんたが誰かに拐われたとなっちゃ、大事だな。…そうしたら、またあんたのせいで人が死ぬかもなぁ。…そんなの、望んでないだろう?」
にやにやと嬉しそうに彼はマリルに言う。
それを眺めて、小さくマリルは微笑んだ。
その笑顔は自虐と慈愛に満ちている。
「…お義母様のお使いなのね…?」
質問に彼は答えない。それでもマリルの確証を得たい質問に対して彼がにやりと笑うのを見ることで、それが正しいことなのだと理解できた。
「…そんなに私を殺したいのかしらね」
記憶の中にある継母を思い起こしてマリルは目を閉じる。きつく組み合わせた両手を握りしめて、眉間に皺を寄せる。足元の緑をほんの少し、睨むように見つめて顔を上げた。
「3日後、真夜中日付が変わる時に」
その男へ真っ直ぐに視線を向ける。彼は一つ頷くと背を預けていた壁を乗り越えて出て行った。