トリイの部屋から出て与えられた客室に戻ってきたマリルはドアを閉めて、三秒その場に留まった。
トリイに頭を撫でられて、その整った顔に見つめられて身体中の血が沸騰したようだ。トリイは本当にマリルを心配してくれているのだ。その心遣いはマリルの心に暖かな火を灯す。
そっと頭に手を伸ばし、トリイに撫でられた箇所を触る。
途端にまた、顔が熱くなる。

人に頭を撫でられるなんて、通常であれば気にくわないことの筈なのに…

「…嫌じゃないなんて…」
思わず呟いてマリルは溜息をつく。
これではまるでトリイのことが好きみたいではないか。そう考えた途端、マリルは勢いよく頭を横に振った。
先ほどのような経験をしたことがないからだ。初めてのことだったから、緊張して身体中が熱くなっただけのことだ。マリルはそう自分に言い聞かせる。
気持ちを落ち着けるように深呼吸を数回行った。





コンコンとノックの音がする。
返事をする前に扉が開き、アクリスが隙間から顔を覗かせた。
「…今、お邪魔してもいいかしら?」
小動物のようにそっと様子を伺う姿にマリルは頷いた。
アクリスは周囲を警戒するように見渡してから急いで部屋に入り、バタンと音を立てて扉を閉めた。優雅な振舞いが身に付いている彼女には珍しい動作だった。
「どうしたの?」
「…追われてるの」
「えぇ!?」
穏やかでない言葉にマリルはいつもより大きな声を出す。しっ、と口元に指を当ててアクリスはマリルを制した。
「追われてるって…誰に?そもそも王宮で追われるなんて…」
ここ以上に警護の固い場所はない筈だ。
シープネスの脅威はもう王宮まで届いているのだろうか。アクリスに危険が迫っているのならば、マリルの所よりも兄であるトリイか、父親である国王の元へ行った方が安全だ。それともそこまで行く余裕もないくらい危険が迫っているのか。アクリス同様緊張するマリルに彼女は声を潜めた。
「カイルと………あと、ケイト」
最後は消え入りそうにアクリスは答えた。
「…カイルとケイト?」
カイルとは、アクリスの弟だ。アクリスはこくりと頷く。
「カイルとは、かくれんぼの最中なの」
トリイとアクリスの歳の離れた幼い弟はまだ4つだ。マリルもこの王宮に来て間もなくカイルと面会している。濃い深緑の髪に明るい金色の瞳の少年は誰にでも親しげに笑いかける物怖じしない性格だ。三兄弟の中では一番好奇心の強い、活発な性格のように思える。トリイもアクリスもこの歳の離れた弟が可愛いらしく、特にアクリスはよく遊び相手になっていた。時々はマリルもアクリスと一緒にカイルと遊んだ。
「そうなのね。…追われているなんて物騒な言い方しなくてもいいのに」
「追われてるのは、カイルよりケイトの方に」
「そう。ケイトに追われてるってどういうことなの?…あれから会ってないの?」
アクリスはマリルを見てぎこちなく頷く。
「…避けてるわけではないのよ?ただ、会いづらくて…」
「それでケイトから逃げてるの?」
「逃げてるつもりはないの。その、会って話すことがあるわけでもないし…」
アクリスにしては歯切れが悪い。
そのままアクリスはソファーに小さく丸くなってしまう。品行方正なアクリスには珍しい行動にマリルは瞬いた。
そっとアクリスの横に座るとその小さな背中を優しく撫でる。何度か背中を擦るうちに、アクリスはしゃくり上げた。
「…だ、大丈夫?」
琥珀色の瞳から透明な涙がこぼれ落ちる。ぼろぼろと泣き出すアクリスにマリルは驚いた。
「…私はいない方がいいかしら?」
恐る恐るマリルは尋ねる。アクリスはその質問に無言で首を横に振った。
「…いて」
小さな声で返答し、マリルの手を握る。アクリスの手を握り返し、マリルは暫く同じようにアクリスの背中を擦っていた。