それは今から10年も前のこと。
今更蒸し返すなど一体この男は何を考えているのだろうか。



日の当たらないじめじめとした日陰にその家はある。
鬱蒼とした暗い森を暫く進むと、これまた陰鬱なパッとしない家が唐突に現れる。来るものを歓迎する気など更々ない、堅固で重い、濃い茶色の木の家だ。
家の庭には申し訳程度に菜園らしきものがある。しかしながら菜園に植わっているのは明るい色の花でもなく、家の主が食べるであろう野菜でもなく、一目見ただけではわからない、雑草のような植物がところ狭しと並べられている。
木々の影に家の周囲は暗く沈み、気が滅入ること、この上ない。

そんな家に、本日珍しく客人が訪ねてきた。

その小さな日陰の家の主、マリル=シープネスは突然の訪問者を不躾なほど、まじまじと眺めた。
翡翠色の綺麗な瞳、キメの整った白い肌、瞳よりも濃い緑の髪。
女のマリルよりも可愛らしいのではないかと思う、その男性はマリルににっこりと微笑んだ。その拍子に見えた歯が、また白い。
「突然の訪問をお詫び致します、マリル妃殿下」
妃殿下。およそこの暗い家には似つかわしくないその敬称にマリルは身を固くする。
その様子に彼は顔の前で手を振った。
「あなたを捕らえに来たわけではありません。ご安心下さい」
彼はまるで害がないようにニコニコと笑う。その顔が能面を被っているようでマリルには気味が悪い。
「あなたに提案があってお伺いしたのです。急に女性の家に押し掛けるなど、不躾は重々承知の上ですが、どうか私の話を聞いてもらいたいのです」
マリルより頭一つ分背の高い彼はゆっくりとマリルに頭を下げる。たったそれだけの仕草がひどく優雅に見える。
それが彼が身につけた教育の賜物だということをマリルは知っている。
なぜなら、マリルも同じ教育を受けた身だからだ。
その美しい所作を身につける過程、そのための費用、人員。それは自分一人のために多くのものが動くということだ。そんな贅沢が許されるのはごく一部の階級しかいない。
この目の前の名前も名乗っていない、失礼極まりない彼は恐らくそういう身分の人物なのだ。
「…私があなたのお話を聞くことに意味があるとは思えません。お引き取り下さい」
マリルが一礼するのと同時に長い黒髪がさらりと落ちる。
人が来るのなら髪くらい結っておけば良かった、マリルは自身の髪が目の前に来るのを見ながら思った。
この家に人はほぼ来ない。だからいつも髪は結わないし、化粧もしない。服にも気を使うことなどない。
マリルはいつもの白いブラウスに濃紺の膝下のスカート姿だ。
目の前の彼のような絹の服はもう何年も着ていなかった。
「そう仰らずに、マリル妃殿下。まずはお話を聞いてくれるだけで良いのです」
「私は妃殿下ではありません。ただの庶民です」
極力平静にマリルは言葉を紡ぐ。声が荒ぶることがないように深く呼吸する。
「そもそも名前も名乗らないような得体の知れない方とは極力関わりたくありません。それも女性の一人暮らしと知っていて、知らせもなく来るような不躾な男性なら尚更です」
「…女性の一人暮らしと知っている、と何故思うのですか?」
「知らなければ『女性の家』とは言わないでしょう」
戸口に女性が出ることは不思議なことではない。けれど出で来た女性に向かって、『女性の家』とはあまり言わない。普通は『ご主人は』とか、『ご家族は』とかそう言った言葉が出る筈なのだ。
その上、この男はマリルの素性まで知っている。開口一番、それを告げてきたその振る舞いからは、自分を脅迫しに来たとしか マリルには思えなかった。
「ご承知でしょうが、この家には従者も家族もおりません。そういった者とは縁がございませんので、お話を聞いても私が役に立つことなどありません」
彼はどこかの貴族か何かだろう。だから生国のマリルの縁を求めてわざわざこんな所まで来たのだろう。マリルが追われた国の特権階級と縁を結びたくて。
「どこのどなたか存じ上げませんが、お引き取り下さい」
視線を外すことなく、真っ直ぐに翡翠の瞳を見つめる。
マリルは彼が生国の全ての縁を切られた自分を侮辱するように眺めるだろうと考えていた。だからこそ目を反らさず、屈辱を跳ね返すつもりで彼を見返した。

けれども彼は一瞬、蛙が予想もしていない攻撃を受けたような、驚いた顔をし、すぐに体を折り曲げて笑い出したのだ。

「…ふっ、ふふふ、あはははは!面白い!」
お腹を抱えて笑い出すと目に浮かんだ涙を白く長い指で拭った。
更に一頻り笑った後、彼は息を整えた。
「すみません、つい…」
「笑われるような事を言ったとは思えませんが…」
「そうですね、あなたの言ったことは正しい。そこに笑う要素はありません。…ただ、あまりにも私の用件と違いすぎて、面白くて、つい笑ってしまいました」
「…用件と違う…?」
今度はマリルが困惑した表情を見せる。
マリルに向かって彼は頷いた。
「…まずは名乗ります。私はこの国、タガールの第一王子、トリイ=タガールと申します。あなたには、私の婚約者になってもらいたいとお願いに来たのです」
その翡翠の瞳の男性はマリルに向かってもう一度、ゆっくりと一礼した。
その仕草はどこまでも優雅な、まるで白い鳥のように見えた。