夏の朝はなんとも言えない気だるさが襲う。肌にへばりついた髪も、アラーム要らずの蝉の声も、朝早くから外に響く子供の声も、全部が気だるさを誘う。

「うるさ……」

申し訳程度に鳴らすアラームにほんの少しも愛情を持って接する事が出来ない私には、人を愛する資格など無いのだろう。
クーラーのリモコンを乱暴に掴み、身体に良くない冷風を吐き出させ、私は煙草の煙を吐き出した。

時計を見るともうすぐ十時が終わる。何もする気になれない夏の私は、仮死状態の蝉よりも価値のない生き物かもしれない。

そんなくだらない事を考えていると、膝にぽとりと灰が落ちた。
触れればほろほろと崩れる灰を見て、何故か別れた彼氏を思い出す。


「お前と居ると時間が無駄に過ぎる」


当時の私はその言葉に、何を言っているんだろう。時間は自分の物なのにどうして私のせいにするのだろうか、と理解が出来なかった。だけど一人になってやっとその言葉の意味が分かったような気がした。
ただ、息をしていつか呼吸が止まる日をじっと待っている。そんな毎日を送る私は他人からしたら時間泥棒なのだろう。

がしがしと頭皮を掻き毟り、洗面所にぽつんと心細そうに佇む歯ブラシに毒々しい赤と青、そして白の歯磨き粉を捻り出し丁寧に歯を磨く。

黒のスキニーに足を捻じ込み、履きなれないスニーカーを履く。これが、これからの日常になる。そう思うと、またなんとも言えない気持ちになって、頭を掻いた。

「すいません、今日研修を受ける日下です」

忙しなく続くレジの切れ目を狙い、静かに声を掛けた。
はた、と手を止めた女性。そして興味なさげに、あぁ、と一言呟いた。

そしてレジの中にある電話に手を伸ばし、ボタンを押した。

「立岩くん、研修の子来たよ」

短く言って置かれた受話器。なんと冷たそうな人なのだろう。怖いか怖くないかどちらかと問われれば、即答で怖いと言うだろう。

「早いですね」

また並び始めたレジを眺めていると背後から声がした。振り返れば昨日会ったばかりの立岩さんが笑って立っていた。

「あ、ごめんなさい」

まただ。
良かれと思って少し早めに来たのに、また誰かの時間を無駄にしてしまう。

身を強ばらせ、謝ると立岩さんが首を傾げた。

「いやいや、良いことですからね。さ、行きましょうか」

想像していた言葉とは違う、優しい言葉をかけられて数秒遅れをとった。
気付けば立岩さんは既に数歩先。小走りで駆け寄り、小さな事務所へと案内された。

「あ、座っていいよ。改めて、立岩です」

促され、昨日も座ったパイプ椅子に腰を掛けるとエプロンに着けた名札を指差し立岩さんが笑った。

「まぁ研修なんてのは名ばかりで仕事の流れとか話したりするだけなんだけどね」

引き攣る私の顔を見て、ぎぎぎとパイプ椅子を引き、座りながら立岩さんの手元にあった資料をこちらに静かに置いた。

「あっ、でもまずひとつ謝る事があるんだ」

ぽんと手を打ち、へらりへらりと話し出す。

「日下さん、レンタル希望だったよね。今レンタルはスタッフ足りてるんだ。でも書籍部門は人が足りてないの。何が言いたいか分かる?」

「……書籍部門で、採用……ですか?」

戸惑いつつ、口を開けば大きく頷いて立岩さんは相槌を打った。

「まぁ、書籍の仕事も覚えてみてそれでもレンタルが良いなら移動なり考えるって感じでどう?」

穏やかな物言いに、一秒二秒と考えた。

折角採用されたのだから受けてしまえ!

いやだけどやっぱり興味のある仕事の方が……

「書籍の仕事から……覚えてみます」

悩んだのは事実。だけどあれこれ考えるよりも先に口が開いた。
私の言葉に反応が見られず、恐る恐る視線を立岩さんの方へやると、にっこりと笑っていた。

「ようこそ、ヒューゴブックスへ。改めてよろしくね」

たった数分。まだ何も詳しい話は聞いていない。
それなのに何故か、霞んだ視界がぱぁ、と晴れた気がした。

出勤時間、勤務時間、給料日、タイムカードの押し方……
次から次に話は進み資料を捲る指が追い付かない。

「ざっとこんなもんかな……」

ふぅ、と息を付いて立岩さんが顔を上げた。
壁にかけられた紙を引っ張り私の前に置く。

「さっきレジしてた女の人、あの人が山科さん。多分一緒に入る事が多くなるから覚えておいてね」

ずらりと書き連ねられたシフト表。

山科

そう書かれた場所を指さして立岩さんが言う。

よくある苗字なのに、そのどれもが初めまして。その妙な感覚はいつになっても慣れない。

「影内、馨?」

綺麗な名前だ。禿げかけのマニキュアが目立つ人差し指で字をなぞり声に出す。

「あ、マニキュアは透明のみ可だから次はとってきてね。……影ちゃん、多分会わないんじゃないかな。夜勤務だから……」

「影、ちゃん」

何故か頭にずしりと重く沈む名。私の小さな頭の中を縦横無尽に跳ねて転がる不思議で、綺麗な名前。

「日下さんとは性格も合わないんじゃないかな」

苦笑いとは違う少し引っ掛かる笑を浮かべて立岩さんは立ち上がる。

「じゃあ取り敢えず山科さんに挨拶して今日は終わりにしようか」

小さな事務所の扉を開き手招きをされて後に続く。
少し背の低い、怖いと感じた山科さん。さっきまでレジにいた筈なのに、もう居ない。

「売り場のメンテナンスしてんのかなぁ……」

相変わらず気の抜けた声で立岩さんが独り言ちていると視界の端、本棚の横を誰かが小走りで駆け抜けた。

「あっ、山科さん」

のんびりとした声で名を呼ぶと、足音が止まりそして本棚の間から先程顔を合わせた山科さんが苛立った顔で現れた。

「忙しいんだけど」

ぶっきらぼうもここまでくると清々しささえ感じるのか。
腕に沢山の絵本を抱え、山科さんが私をチラリと見た。なのにまるで見えなかったとでも言わんばかりに立岩さんに噛み付いた。

「てかさぁ、もう置く場所無いっつったよね?フェアだかなんだか知んないけどもぅ絵本は陳列出来ない。無理!」

丁寧に抱えた絵本をぱん、と叩いて山科さんは溜息をつく。
口を挟む訳にもいかず、ただ立岩さんと山科さんを交互に盗み見て床を見る。

「売れないやつ、返本していいっすよ。山科さん、この子、日下さん。明日から入って貰うんで山科さん教育係でお願いします」

「嫌です」

「もぉ〜、山科さんしか教育出来ないんすから頼みますよ」

へらへらと笑う立岩さんを睨み付けながら、山科さんがすっと手を本棚へと伸ばした。

その動作はあまりに静かで、自然で、気を抜けば気が付かないくらいだった。

そして本棚の列から一歩前へと飛び出た文庫を元の位置へと押す。
本棚へ伸びた手、本を押す人差し指。全てに小さな愛が見えた気がした。

「あの、……日下です……よろしくお願いします」

促されるよりも前に、私も押された文庫の様に一歩前へと足を出す。
気が付けば、声が出て、真っ直ぐに山科さんの目を見ていた。

怪訝そうな表情で山科さんがやっと私の目を見てくれた。

「私、足引っ張ってしまうかもしれませんが、頑張ります」

少し早口で言い終えて、ハッとした。
普段の私ならこんな事は言わない。
急いで視線を泳がせ、如何にこの場から早く立ち去るかを考えていると山科さんの手がまた別の棚へ伸びた。
誰かに倒されてしまった、昨年大流行した本をそっと起こして小さく呟いた。

「……よろしく」

たった四文字。それと深緑のエプロン。そして綺麗な、名前。

何も変わらないかもしれない。
でも、何か変わるかもしれない。

それでも朝に感じた様々な違和感が、期待に変わり、暑い外気に包まれた。

振り返り、見上げる。
全く知らない、新しいステージ。