〝見た事は忘れろ〟
一般生徒に、そこまでの強い脅迫観念が必要だろうか。
ワザワザそこまで念押ししなくても。
次第に、薄笑いが引いてくる。……見た事を忘れろとは。
「あのさ、そんとき何見た?」
「さぁ」と、女子は首を傾げた。
気になる。
これはもう野生のカンとしか言いようがない。
右川の言う通り、俺はちゃんと従っている。今回は、仲良く手を組んでいるのだから、何の隠しだても必要ない。
まさか、俺が知らされていない何かが……あるのか。考え過ぎか。
あ!と、女子は何やら思いついて、
「それかどうか分かりませんけど、さっき、変な人が居たんですよ」
変な人。
これはまた漠然としている。
生徒を狙った盗撮?変態?変態ならもう、あっちに沢山いるけど。
「何だかよく分からないんですけど、変な人でした。付属かな?双浜かな?……変な人なんです」
意味が全く分からない。とりあえず周囲にはもうその変人は見当たらないと言うので、気にしなくていいと言った。俺も、もう気にするのはやめよう。
俺は、新しいアクエリアスを半分一気飲みして、渡されたタオルで流れる汗を拭った。
動かなくても暖かい日差し。と言う事は、動けば灼熱地獄。
6月と思えない。初夏を思わせる日差しと熱が、水分と体力を奪う。
飲んでる側から、汗は流れる。付属男子も、さすがにキツいと、その場に座り込んでシャツに風を送っていた。
そこへ、「らす」と女子が1人やって来た。
そこら中の付属男子はその女子に一目置いて……しかし、見てはいけないモノのように、すぐに目を反らす。俺的には無視もできない。
「よっ」甘んじて、片手を上げて愛想を返した。
「妹が世話になってんね~」
間延びした声。馴れ馴れしく肩を叩く。女子はそろそろ体力の減退期にありながらもコイツはやけに余裕を感じる。ドラえもん体型の、松倉。
相変わらずデカい。赤いジャージがその存在感を二割増しに膨らませる。
「もう!お姉ちゃん、遅いぃ」と、妹は甘えるように姉にすがりついた。
姉妹で、何か約束事があったらしい。
お姉ちゃんなんか嫌だーとか言いながらも、実際は仲の良い姉妹なのだろう。それだけ、妹は姉に心を許しているように見えた。
これから休憩地点を後にして、折り返しまで、また世間話で走る。
走り出した俺達のすぐ後ろ、松倉姉は後を付いてきた。
ドタドタと……いやしかし、意外に速いな。
そして、5キロの折り返し地点に、やってきた。
あとは下るだけ。往路よりも早いだろう。このまま行けば、ソニーのヘッドフォンも夢じゃない。最後はスパートをかけようかな。松倉妹、許せ。
ここでも水をもらう。
それで頭を冷やす。残りのアクエリアスを、喉に流しこんだ。
この地点には、お互いの先生も居て、あちこちで談笑している。
驚くのが、黒川が居た事だ。
永田の見張り役を断っといて、あいつはここで何をやっているのだろう。
見れば、吉森先生と和気あいあい、世間話。
マラソンはしないけど、このチャンスに先生を独占したっていいだろう?と、そんな不敵な笑みを振りまいている。
桂木が居た。
離れた所の木の下で、例の男子と仲間に囲まれて、楽しそうに休憩中。
「モテ期、到来か」
客観的に見て、桂木は、大人らしい見掛けにもどこか無邪気な名残を思わせる。後輩にとっては、近づきやすいお姉さんといった所か。
嫉妬は無い。そっちが楽しいなら、それもいいかと。
ズルい考えを承知で、もうこの頃になると、ハッキリと頭の中で言葉になって浮かぶ。もう、結論は出ているのだ。
右川もいた。
見ると、こちらは3人の付属男子が、右川を取り囲んでいる。
どれも俺ぐらい背が高いヤツらばかり。わずかな隙間から、こじんまりと右川が見えた。話が弾んでいるようで、右に左に頷いて、何か喋って、肩先をつんと小突かれて、男子にもたれかかって……そこまでやるか。
一体どうしちゃったのか。山下さんにチクるぞ、と思ったけど。
「ある意味、チャンス到来か」
報われない思いを永く持ち続けるより、新しい可能性を掴む方が賢明だ。
ただ山下さんを凌ぐ存在があの中にいるとは、どうしても思えなかった。
坊主頭のラインズマンにも及ばないだろう。右川の様子を見れば分かる。
いつかのように、山下さんに甘えて……そんな雰囲気が、全く無いから。
右川にしたら、俺と黒川は元より、他の男子とどうとか、それすらどうでもいい事だろう。それなのに、あの寄り掛かりは……不自然といえば不自然。
俺に気付いて、桂木が手を振る。復路を、あの付属男子と共に出発した。
その背中を見送って、こっちも、そろそろ出発だなと……松倉姉妹は、何やら話し込んでいる。
「そろそろ、行こうか」
松倉妹がこっちを振り返った。
その弾けるような笑顔の向こうに広がる景色に……俺は、何故か急に、既視感に襲われる。
付属男子が縦横無尽に休憩場所に雪崩れ込み、座り込み、「だりー」「何か食おうぜ」「今日この後、すぐ解散?」「部活だろ。普通に」と、のんびり雑談で沸いている中。
濃紺ジャージの波の中……俺は一体、何を見て不安に襲われているのか。
喧嘩は起きていない。
具合が悪くなって倒れているヤツも居ない。変な人、見当たらない。
それなのに、タダならない事が起きているような既視感が拭えない。
「沢村先輩、行きましょう」
うん。
妹と2人、復路のスタート地点まで歩いて。
俺はそこで1度後ろを振り返った。
何も、変わった所は無い。
「先輩、どうしました?行きましょう」
うん。
そこでまた振り返った。
右川が見えた。まだまだモテ期を堪能中。
いつものあの勢いで、好き勝手な自論を展開していると見た。
引きとめ作戦、地味に発動中。そう見えた。全く、いつも通りだ。
「先輩、早く、早く行きましょう」
「うん」
その時だった。
また妙な感じが襲ってきた。
今度は言うなれば、ちぐはぐな感じ、である。
ズレ。見間違い。もう1度、後ろを振り返った。
何が気になるのか。
俺には、黒川ほどの、ひらめきは無い。もう諦めて走り出そうか。
そこから、ほんの5メートルほど走って……立ち止まる。
やっぱり気になる。
「先輩、早く!付属に遅れを取っちゃいますよぉ!」
動き出さない俺に業を煮やしてか、松倉妹が腕を掴んで引っ張った。
引っ張られながら、もう1度、後ろを振り返る。
濃紺ジャージの波の向こう、隙間から右川が見えた。
何でもない。やっぱり仲良くやっている。
気になるのは、嫉妬か……ありえない。
てゆうか、そういう事では無い気がした。
「あ!先輩!忘れてました!写真です!写真を撮りましょう!あそこの……桜の木の下!」
ここにきて、写真?
桜はすっかり散っている。確かにすっかり忘れていたけど。
なんだろう。急に松倉妹の勢いが強くなった気がした。
「松倉さん、ちょっと、もう少しだけここに居ていいかな。あ、写真撮ったら、先に行ってもらえる?俺は後から追い掛けるから」
気になる事は、そのままにしない方がいい。
過去に何度も、悔やまれてきたからだ。
松倉妹は、それでも離れなかった。「え……写真は。でも、マラソンが」
どこか思いつめた様子で俺の腕をドンドン引く。
「松倉さん?」
「お……お姉ちゃんっ!」
それは叫び声に近かった。
次の瞬間、いつの間に背後に居たのか、松倉姉が、横から俺のジャージ襟首を鷲掴みにする。目を合わせたまま、お互いに固まった。
これは、どういう事だ?
妹は俺の腕を離さない。
姉は首根っこを掴んで、俺と熱く見詰め合う。
現状、俺は松倉姉妹に身体ごと拘束されていた。
俺の運命のモテ期が到来♪
……いや、そうじゃないだろう。
「おまえら、右川に何か言われたのか」
姉の鷲づかみはさらに力が籠もる。妹の腕はブルブルと震えた。
肩越しに振り返ると、壁のように立ちはだかる付属男子、その濃紺ジャージの波の切れ間に、右川が見える。さっきと同様、何か喋っている。
その足元に目をやった。
息を呑む。
誰かが……右川の足を踏んでいる。
濃紺ジャージを着た男子生徒だった。だが、そいつは付属の生徒ではない。
右川が口止めする訳だ。あの女子の言った通り。
〝変な人〟。
「……重森か」
俺は、姉妹を振り切った。
濃紺ジャージの波を掻き分ける。「んだよっ!」「押すなよぉ」「痛ぇよ!」「触んな」付属生徒の非難囂々を浴びながら、俺はその壁を乗り越えた。
さらにその向こう、付属のジャージを着た重森が居る。
なんちゃってが過ぎるだろ。姑息な真似を!
これが、ずっと感じていた違和感の正体だった。
その足は右川を踏んだまま、微動だにしない。
周りの付属男子は幾重にも壁になり、周囲からその場を隠した。
赤いジャージの右川が、右に左に、押したり引いたり……。
躊躇は無い。
俺はその波に、飛び込んだ。
一般生徒に、そこまでの強い脅迫観念が必要だろうか。
ワザワザそこまで念押ししなくても。
次第に、薄笑いが引いてくる。……見た事を忘れろとは。
「あのさ、そんとき何見た?」
「さぁ」と、女子は首を傾げた。
気になる。
これはもう野生のカンとしか言いようがない。
右川の言う通り、俺はちゃんと従っている。今回は、仲良く手を組んでいるのだから、何の隠しだても必要ない。
まさか、俺が知らされていない何かが……あるのか。考え過ぎか。
あ!と、女子は何やら思いついて、
「それかどうか分かりませんけど、さっき、変な人が居たんですよ」
変な人。
これはまた漠然としている。
生徒を狙った盗撮?変態?変態ならもう、あっちに沢山いるけど。
「何だかよく分からないんですけど、変な人でした。付属かな?双浜かな?……変な人なんです」
意味が全く分からない。とりあえず周囲にはもうその変人は見当たらないと言うので、気にしなくていいと言った。俺も、もう気にするのはやめよう。
俺は、新しいアクエリアスを半分一気飲みして、渡されたタオルで流れる汗を拭った。
動かなくても暖かい日差し。と言う事は、動けば灼熱地獄。
6月と思えない。初夏を思わせる日差しと熱が、水分と体力を奪う。
飲んでる側から、汗は流れる。付属男子も、さすがにキツいと、その場に座り込んでシャツに風を送っていた。
そこへ、「らす」と女子が1人やって来た。
そこら中の付属男子はその女子に一目置いて……しかし、見てはいけないモノのように、すぐに目を反らす。俺的には無視もできない。
「よっ」甘んじて、片手を上げて愛想を返した。
「妹が世話になってんね~」
間延びした声。馴れ馴れしく肩を叩く。女子はそろそろ体力の減退期にありながらもコイツはやけに余裕を感じる。ドラえもん体型の、松倉。
相変わらずデカい。赤いジャージがその存在感を二割増しに膨らませる。
「もう!お姉ちゃん、遅いぃ」と、妹は甘えるように姉にすがりついた。
姉妹で、何か約束事があったらしい。
お姉ちゃんなんか嫌だーとか言いながらも、実際は仲の良い姉妹なのだろう。それだけ、妹は姉に心を許しているように見えた。
これから休憩地点を後にして、折り返しまで、また世間話で走る。
走り出した俺達のすぐ後ろ、松倉姉は後を付いてきた。
ドタドタと……いやしかし、意外に速いな。
そして、5キロの折り返し地点に、やってきた。
あとは下るだけ。往路よりも早いだろう。このまま行けば、ソニーのヘッドフォンも夢じゃない。最後はスパートをかけようかな。松倉妹、許せ。
ここでも水をもらう。
それで頭を冷やす。残りのアクエリアスを、喉に流しこんだ。
この地点には、お互いの先生も居て、あちこちで談笑している。
驚くのが、黒川が居た事だ。
永田の見張り役を断っといて、あいつはここで何をやっているのだろう。
見れば、吉森先生と和気あいあい、世間話。
マラソンはしないけど、このチャンスに先生を独占したっていいだろう?と、そんな不敵な笑みを振りまいている。
桂木が居た。
離れた所の木の下で、例の男子と仲間に囲まれて、楽しそうに休憩中。
「モテ期、到来か」
客観的に見て、桂木は、大人らしい見掛けにもどこか無邪気な名残を思わせる。後輩にとっては、近づきやすいお姉さんといった所か。
嫉妬は無い。そっちが楽しいなら、それもいいかと。
ズルい考えを承知で、もうこの頃になると、ハッキリと頭の中で言葉になって浮かぶ。もう、結論は出ているのだ。
右川もいた。
見ると、こちらは3人の付属男子が、右川を取り囲んでいる。
どれも俺ぐらい背が高いヤツらばかり。わずかな隙間から、こじんまりと右川が見えた。話が弾んでいるようで、右に左に頷いて、何か喋って、肩先をつんと小突かれて、男子にもたれかかって……そこまでやるか。
一体どうしちゃったのか。山下さんにチクるぞ、と思ったけど。
「ある意味、チャンス到来か」
報われない思いを永く持ち続けるより、新しい可能性を掴む方が賢明だ。
ただ山下さんを凌ぐ存在があの中にいるとは、どうしても思えなかった。
坊主頭のラインズマンにも及ばないだろう。右川の様子を見れば分かる。
いつかのように、山下さんに甘えて……そんな雰囲気が、全く無いから。
右川にしたら、俺と黒川は元より、他の男子とどうとか、それすらどうでもいい事だろう。それなのに、あの寄り掛かりは……不自然といえば不自然。
俺に気付いて、桂木が手を振る。復路を、あの付属男子と共に出発した。
その背中を見送って、こっちも、そろそろ出発だなと……松倉姉妹は、何やら話し込んでいる。
「そろそろ、行こうか」
松倉妹がこっちを振り返った。
その弾けるような笑顔の向こうに広がる景色に……俺は、何故か急に、既視感に襲われる。
付属男子が縦横無尽に休憩場所に雪崩れ込み、座り込み、「だりー」「何か食おうぜ」「今日この後、すぐ解散?」「部活だろ。普通に」と、のんびり雑談で沸いている中。
濃紺ジャージの波の中……俺は一体、何を見て不安に襲われているのか。
喧嘩は起きていない。
具合が悪くなって倒れているヤツも居ない。変な人、見当たらない。
それなのに、タダならない事が起きているような既視感が拭えない。
「沢村先輩、行きましょう」
うん。
妹と2人、復路のスタート地点まで歩いて。
俺はそこで1度後ろを振り返った。
何も、変わった所は無い。
「先輩、どうしました?行きましょう」
うん。
そこでまた振り返った。
右川が見えた。まだまだモテ期を堪能中。
いつものあの勢いで、好き勝手な自論を展開していると見た。
引きとめ作戦、地味に発動中。そう見えた。全く、いつも通りだ。
「先輩、早く、早く行きましょう」
「うん」
その時だった。
また妙な感じが襲ってきた。
今度は言うなれば、ちぐはぐな感じ、である。
ズレ。見間違い。もう1度、後ろを振り返った。
何が気になるのか。
俺には、黒川ほどの、ひらめきは無い。もう諦めて走り出そうか。
そこから、ほんの5メートルほど走って……立ち止まる。
やっぱり気になる。
「先輩、早く!付属に遅れを取っちゃいますよぉ!」
動き出さない俺に業を煮やしてか、松倉妹が腕を掴んで引っ張った。
引っ張られながら、もう1度、後ろを振り返る。
濃紺ジャージの波の向こう、隙間から右川が見えた。
何でもない。やっぱり仲良くやっている。
気になるのは、嫉妬か……ありえない。
てゆうか、そういう事では無い気がした。
「あ!先輩!忘れてました!写真です!写真を撮りましょう!あそこの……桜の木の下!」
ここにきて、写真?
桜はすっかり散っている。確かにすっかり忘れていたけど。
なんだろう。急に松倉妹の勢いが強くなった気がした。
「松倉さん、ちょっと、もう少しだけここに居ていいかな。あ、写真撮ったら、先に行ってもらえる?俺は後から追い掛けるから」
気になる事は、そのままにしない方がいい。
過去に何度も、悔やまれてきたからだ。
松倉妹は、それでも離れなかった。「え……写真は。でも、マラソンが」
どこか思いつめた様子で俺の腕をドンドン引く。
「松倉さん?」
「お……お姉ちゃんっ!」
それは叫び声に近かった。
次の瞬間、いつの間に背後に居たのか、松倉姉が、横から俺のジャージ襟首を鷲掴みにする。目を合わせたまま、お互いに固まった。
これは、どういう事だ?
妹は俺の腕を離さない。
姉は首根っこを掴んで、俺と熱く見詰め合う。
現状、俺は松倉姉妹に身体ごと拘束されていた。
俺の運命のモテ期が到来♪
……いや、そうじゃないだろう。
「おまえら、右川に何か言われたのか」
姉の鷲づかみはさらに力が籠もる。妹の腕はブルブルと震えた。
肩越しに振り返ると、壁のように立ちはだかる付属男子、その濃紺ジャージの波の切れ間に、右川が見える。さっきと同様、何か喋っている。
その足元に目をやった。
息を呑む。
誰かが……右川の足を踏んでいる。
濃紺ジャージを着た男子生徒だった。だが、そいつは付属の生徒ではない。
右川が口止めする訳だ。あの女子の言った通り。
〝変な人〟。
「……重森か」
俺は、姉妹を振り切った。
濃紺ジャージの波を掻き分ける。「んだよっ!」「押すなよぉ」「痛ぇよ!」「触んな」付属生徒の非難囂々を浴びながら、俺はその壁を乗り越えた。
さらにその向こう、付属のジャージを着た重森が居る。
なんちゃってが過ぎるだろ。姑息な真似を!
これが、ずっと感じていた違和感の正体だった。
その足は右川を踏んだまま、微動だにしない。
周りの付属男子は幾重にも壁になり、周囲からその場を隠した。
赤いジャージの右川が、右に左に、押したり引いたり……。
躊躇は無い。
俺はその波に、飛び込んだ。