それからも彼女は康太を質問責めにした。
康太の年齢や、育った場所はどんなところか?
他愛もないが、答えるのに苦労するものもあった。
風は何処から来るのか?
鳥は何故空を飛べるのか?
大地は何処まで続くのか?
彼女には新鮮だった。
それまでもここに来たヒトと話す事はあった。しかし皆、一方的に自分の事を話す者ばかりだった。
最後に話した記憶はいつだったか……。
若い女だった。恋人が戦争に駆り出されたと泣いていた、負け戦に何故参加しなくてはならないのだ、死にに行くだけだと。
彼が死んだら私も死ぬ、そう言って泣いていた。
しかし目の前の男は、自分の話を聞いてくれる、そんな事は初めてだった、なんだか心が浮き足立つ。
それでも、時は容赦無く過ぎる。
「あ、しまった。こんな時間だ」
康太は腕時計で時間を確認した。
彼女も、夜明けが近付いている事を体で感じた。
「ごめんね、もう帰るよ。楽しかった」
康太が微笑み、立ち上がる。
「……待って」
彼女は最初同様、儚げな声で言った。
「また来て。今度の丸い月の夜に」
「え」
不思議な美女の申し出に、康太は戸惑う。
「……お願い」
彼女の真摯な願いを感じた。
美しい女性の哀しげな瞳に心を奪われた。
「うん、来るよ、必ず。その時はヘルメット持って来るね、後ろに乗せてあげるよ。こうやって朝まで居られるなら、朝日でも見に行こう。水平線から上がる朝日は綺麗だよ」
遠くのバイクを指差して言ったが、彼女はちらりと見ただけで俯いてしまった。
(あれ? 嫌なのかな? もしかして、誰かとここで待ち合わせしてるのかな。ああ、それはもう逢えない人とかってヤツ……?)
康太は一人、心の中で合点する。
「あ、ごめんね、行けたらでいいや。あ、あのさ、今更だけど、名前、なに?」
彼女は顔を上げると、微かに首を傾けた。
「名前?」
「俺は、桐島康太、君は?」
「……ないの」
「え……っ」
(えええ!?)
教えたくないだけか、とも思えたが、その淋しげな表情に、本当に無いのだと感じた。
康太は彼女に隠れて、大腿をつねった、確かに痛みは感じる、夢ではないと判断した。
(つか人間、不安になると本当にやるんだな、こんな事。つか名前がないって、マジやばい系か、狐か狸か……!?)
しかし彼女は、不安げな顔で康太を見上げていた、美しい顔で。
「えっと。じゃあ……俺がつけてあげる」
「え……」
「月の夜に逢えたから、月子さん……は、何か芸がないな。女神の名前とか? ディアナ、アルテミス、ルナ、嫦娥……」
しかし、どれもしっくりとは来ない。
「あ、月読!」
「……ツクヨミ」
初めて彼女の表情が動いた、嬉しい、と。
「日本神話に出て来る男の神様だけど。月子さんより似合うよ!」
彼女は小さく頷いた、はにかんだ表情が、無性に康太の心を掴んだ。
「じゃあ、来月また来るね」
「来月」
「次の満月ってことだよ」
そう言って、康太は右手を差し出した、小指だけを立てて。
彼女は不思議そうに見上げる。
「指切りだよ、知らないか。小指と小指を絡めて呪文を唱えるんだ、約束は破らないよって」
そう言って彼女の手を取った、とても冷たい手で驚いた、一晩中外にいたからだろうか。
「こうやって小指出して」
彼女は立ち上がると、言われるままに指を絡める。
「指切りげんまん」
「ゆびきりげんまん」
「嘘ついたら、針千本」
「はりせんぼん」
「飲ぉます」
「のーます」
「指切った!」
康太は手を緩めたが、彼女は絡めたままだ。
「あは、今時こんな事しないか」
康太は真っ赤になって、彼女の指を解く。
「じゃあ、月読さん」
康太が呼ぶと、彼女は嬉しそうに康太を見た、その瞳に初めて感情を感じた。
「来月、また来るね」
「……待ってる」
儚い声に、康太はどうしようもなく心が疼いた。
頭をかいてその気持ちを誤魔化し、振り切るように、じゃあ、と言って、康太は草を掻き分けバイクに向かって歩き出す。
微かに明るさを増した中にセルの音が響いた。
ヘルメットを被り、康太は彼女に手を振ると走り出す。
彼女は見えなくなるまで見送っていた。
エンジン音が消え、姿も見えなくなると、山の稜線にかかり始めた月を睨んだ。
「……私は、何……っ!?」
苦しげに叫ぶ。
「お願い」
月に手を伸ばした。
「私を自由にして……!」
睨む間にも、月はじりじりとその姿を隠そうとしている。
「こんな気持ち、初めて……っ、初めてここから出たいと思った、康太と行きたいと思った……!」
美しい黒曜の瞳から涙が溢れる、泣く事すら初めてだった。
「お願いだから……私を、ヒトにして……っ!」
月を捕まえようとするか如く、伸ばした手を握り締めた。
その手が輪郭を失う。
東の空に暁光が煌めく。
世界が色を取り戻す中、その光に掻き消されるように彼女の姿は霧散した。
大粒の涙だけが残り、朝露と混じり草の葉を濡らす。
声が風に混じる。
「……こうた……」
陽光を喜ぶ草達がざわめいているのようだった。
鳥達が囀りながら草はらを飛び過ぎる。
彼女は明るい世界を知らない、世界も彼女の存在を知らない。
ただ一人、名付けの男だけが知っている、彼女の事を、彼女の晴れやかな笑顔を。
終