漆黒の闇が訪れ、プラチナの満月が闇夜を照らし始めると彼女は目覚める。

何万回と繰り返してきた目覚め。

今宵もたった一夜の静かな時間が始まる。

ゆらりと立ち上がると、ゆっくり目を開ける。
まつげについていた露を、細い指で拭った。

凪いでいた風が、下草を撫でるように吹く。

毎度の事ながら、静かな夜だった。
星の音が聞こえる様だった。
たまに入る邪魔は、風の音だ。

彼女は小さく長い息を吐いた。

天空を仰ぎ、月を視界に収める。
月明りを全身に感じた。

自分がいつから存在していたのか、記憶がない。

気が付いた時には、ここにいた。

何をするではない、ただ、ここにいる。

不意に横から強烈な光を感じた。

時折ある事だ。

離れたところに、車が一台通れるほどの道がある。
舗装もされていない、石ころだらけの道だ。
そこを車が通り抜ける時、強力なベッドライトが辺りを照らし出すのだ。

その明かりが、ふっと消えた。

ああ、来る。

彼女は思った。

それも時折あることだ。

滅多に人が来ることはないこの場所に、人がやってくる。

ある時は、何人かの若者が大騒ぎをしに。
ある時は、男女が逢引きに。
ある時は、小さな少年がいなくなった犬を探しに。
またある時は、老婆が目も虚ろに、主人に殺されると呟きながら。

今日はどんなヒトが来たのだろうか。

若い男は草むらを掻き分け、入って来た。

空を見上げて、月を見ていた。

微笑むその横顔に、何故か引き付けられた。

彼はまだ自分の存在に気づいていない、放っておけばいい……。

ふと、彼女は指先に残る露に気付いた。

しばし見つめ、口元に寄せると、そっと息を吹きかける。
露は雫となり、風に乗って彼の頬に落ちた。

「……ん?」

康太は頬に落ちた飛沫に気付いた、雨かと思ったが、雲は相変わらず一つもない。
遠くから運ばれて来るほど、強い風も吹いていないのに。

大して濡れたわけではないが気になって手で拭った時、女性がいることに気付いた。

ほんの数メートル先に彼女は立っていた。

今の今まで気づかなかった。
砂利道の端にバイクを停めて、ここまで歩いてくる間に気付きそうなものなのに。

「あ……ごめんなさい」
思わず謝っていた。
「先約がいましたか」

美しいと言う言葉はこの女の為にあるのだと、康太は初めて理解した。

月明りに照らされた彼女は、その光を集め、発光させているか如く見えた。
亜麻色の髪は輝き、白いワンピースは月そのもののように煌めいていた。
青白い美しい顔は化粧はしていないようだが、それが余計に神秘的で、少し、不機嫌なようにも見えた。

「ここはあなたの場所なんですね」
康太はできるだけ優しく言った。
「お邪魔しました」

小さく会釈して立ち去ろうとすると、

「……待って」

彼女は消えてしまいそうな声で言った。

「え?」
「少し……話を」

その容姿から想像できないか弱い声が、康太の足を止めた。

「あ、じゃあ……どっか座ろうか。あっちに岩があるから、あそこまで……」

彼女はゆるりと首を左右に振る。

「私はここから動けない」

「え? そうなんだ」

なんで、とは聞けなかった。

「じゃあ、ここで」

康太は彼女の隣に座り込んだ、彼女は戸惑うようにたじろいだが、すぐ隣に正座して座った。
周囲の草は、二人を肩まで隠してしまう。

風が吹く。
草を揺らして、自分たちに迫ってくる様子がはっきりと見て取れた。

ついさっきまで見ていた海と同じだ、と康太は思った。

「君は何しに来たの?」

康太から口火を切った。

「……判らない」
「ふうん。俺は月を見に来たんだ。ここは前に昼間来たことがあって。ここまで来ればきっと空が全部見えるなと思ってさ。やっぱ凄いや、月がこんなに明るいなんて知らなかった」

康太は両手を挙げた、そして背後を見る、草むらに伸びる自分の影があった。
自分が動けば影も動く、都会でそんな事、気にしたこともなかった。

そして、彼女には、影がなかった。それに康太は気付けない。

「何処から来たの? 俺は横浜から」
「……判らない」

「えっと。ご近所?」
「違うわ」
「歩いてきたの?」
「違うの」

会話にならない。
康太は内心溜息を吐いた。

やむなく、むしろ口を閉ざす、元々話をしたいと言ったのは彼女だ。

月を見上げた、スーパームーンとは言うが、天空高くに昇った月は、平素と変わらないように見えた。
草むらを揺らして風が過ぎた時、彼女は静かに言った。

「……あの乗り物は何?」
「え?」

彼女の視線の先には、康太が乗ってきたバイクがあった。

(バイクを知らない? どっかのお嬢様なのかな? むしろバイクに詳しくて、車種を聞いてる???)

戸惑いつつ、答える。

「バイクだよ」
「……バイク」

その口ぶりは、初めて聞いたとでも言いたげだった。

「興味ある? 乗せてあげるよ、ああ、今日は駄目だけど。ヘルメットがないから」
「ヘルメット」
「頭を守る道具だよ。あ、見る? 持ってくるよ」

立ち上がりかけた康太を、彼女はそっと引き留めた、首を左右に振る。
康太は、体育座りで座り直した。

「時々、双眼の四角い乗り物も通るけど」

(そうがんの、しかくい、のりもの!?)

康太は驚きながら、心の中で彼女の言葉を復唱した。

「……車の事かな。四輪車」
「四輪車」
「自動車とも言うけど。乗用車とか」
「自動車、乗用車」

彼女はどれも初めて聞くようだった。

(うわっ! ちょっとヤバめの子なのかな!?)

「あれは、何?」

今度指さしたのは、空に輝く月だった。

「月、だけど」
「月」

彼女は、その真円の光る存在を、睨み付けるように言った。

自分を縛り付ける、憧憬と憎悪が混じった瞳で。