by 前嶋 篤
義明には、時田さんの悩みについては話さなかった。が、俺は実は、昨日、彼に悩みを打ち明けられてしまった。それは、本当にデリケートなことだし、どうしようのないことでもあった。
俺は、滅多に客席に長居はしないんだけど、昨日は、たまたま、小西先生が来ていたので、一言あいさつに出たところだった。
小西先生は、時々ふらっと1人で来ることと、明らかに接待で来ることがあって、昨日は一人だった。
「その節はお世話になりました。」と、俺が挨拶すると、「ああ、無事に産まれて良かった。」と、彼は言った。どっちかというと、病院で大騒ぎした黒歴史の方について言ってるんだけど、小西先生は、あんまり気にしてないみたいだ。
「産婦人科なんて、常時誰かが大騒ぎしてるからね」と、小西先生は笑っていた。
「その後、ひとみさんと穂香ちゃんの調子はどう??」と、彼は言った。
ひとみは、左手の麻痺が治らず、すぐに風邪をひいては、発熱を繰り返している。
「左手ね。。すぐに気がついて投薬開始したら違ったかもしれないんだけど、ひとみさん、麻痺のこと何も言わなかったんだよね。気がつけなくて、本当に申し訳ない。。」と、小西先生は、言った。
「ひとみは、、自分自身、気がついてなかったみたいです。しばらくお粥やら匙で食べてたのが、箸と茶碗に持ち変えて、気がついて慌てたらしい。痛くないし、ベッドに寝たきりで困りもしなかったから。起き上がって、作業しようとして、いつもと違って、手がうまくひっかからないって気がついたって言ってました。だるいとか、ふわふわする方が気になって、あまり深刻には考えてなかったみたいです。」
「俺さ、あとで考えたら、どこか痛かったりつらかったりしませんか?とは、聞いたけど、違和感は聞かなかったんだよね。。」と、小西先生は、言った。
「ああ、痛くなかったですよね。麻痺だから、感覚も無くしてるし。。親父に言われました。気がつかないところまで含めて症状だったんじゃないかって。リハビリって、何が目的なんですか?治るものなんですか?治らないもの?」
「ごめんね。30パーセント戻るか、70パーセント戻るか分からない。それが、何ヶ月後か、何年後かも分からない。」小西先生は、気まずそうに言った。
ひとみは、小西先生の紹介で、総合病院の神経内科とリハビリに通っている。
小西先生は、若くて話しやすいけど、神経内科の先生は何も言わない先生で、不安をあおられるばかりだった。同じ質問を神経内科でしたら、怪訝な顔をされた。
「あのさ、ちょっと話は変わるんだけど、、あの人大丈夫かな??」と、小西先生は、目配せした。
その時には、時田さんは、ぐでんぐでんで、確かにちょっと危ない状況だった。
「俺さ、今日はゆっくりご飯食べて人間観察してたんだけど、かなり飲んでるんだと思うよ」
「ああ、親父の知り合いだ。滅多に一人じゃ来ないんだけどな。」
俺は、時田さんのテーブルに移った。
「時田さん、大丈夫??誰か呼ぼうか??」場所を変えて横になった方が良いかもしれない。
けれども、時田さんは、むくっと顔を上げて、コップを手にした。
「飲みすぎに良いの持って来させるよ」俺は、店の子を呼んで、レモン水を頼んだ。
「すみません。前嶋さんの息子さんですよね。」と、彼は酔いを振り払うように言った。
「そうです。」
「今日は、ちょっと帰りづらいんだ。もうっちょっとして、気持ちに踏ん切りがついたら帰りますよ。」
「喧嘩でもしたんですか??じゃあ、義明でも呼ぼうか??。」
「いや、帰らなきゃ。待ってるんで。。喧嘩ならまだいい。俺の奥さん、付き合ってから気がついたんだけど、意外なほど一途な人なんです。」
ごちそうさまだ。
「それじゃ、ちょっと休憩して、タクシーか、嫌なら俺の車で送ろうか??。」
時田さんは黙り込んだ。
彼は、レモン水が運ばれてくるまで黙っていた。

運ばれてきたレモン水を飲み干した後、時田さんは、俺の顔を見た。
「前嶋さん、俺、今から彼女をがっかりさせなきゃいけないかもしれない。前嶋さんにはこういうことってありますか??」
「俺は、、できちゃった結婚だし、できちゃってもなかなかOKもらえなかった、がっかりな男なんで、始まりからがっかりだらけですね。」
時田さんは、笑った。笑ったけど、何だかえらく乾いたような、変な笑い方だった。
「お子さん可愛いでしょうね。母性の前には、男はひれ伏すしかないというか。前嶋さん、授かったものは大事にしないとね。」
「大事にしてますよ。しぶしぶOKもらっても、逃げられたら困るんで。」
時田さんは、また笑ったけれど、やっぱり乾いた笑いだった。
「ご家庭のことじゃないとなると、仕事のことですか??」
「仕事はうまくいってます。それに、俺の仕事がうまくいかなくたって、俺が努力してる限りは、そのことで彼女が俺を責めたりしない。彼女は、とても、人を育てるのがうまいんです。だから、俺が諦めない限り、挽回のチャンスを一緒に狙ってくれると思う。」
第一人称が俺になっている。。
「いい奥さんですね。」

一体なにがあったんだ??この人、浮気でもしたのか??

「でも、彼女が俺に望んだ唯一のこと。それが、俺には難しいと分かった。俺は、産まれながらに無能だったんです。彼女に本当のことを話すか話さないか、まだ迷っている。」

時田さんは、またおかしくなってきた。

「よくわからないけれど、時田さん、本当に良い人だし、人間誰しも欠点の一つや二つあるだろうし、くよくよしてるより、もうちょい悪ぶって居直っても良いと思うんですけどね。それに、、無能とか何とか、時田さんにそんな思いつめるようなコンプレックスあるなら、俺はむしろ親近感わくけどね。がっかりさせるのが怖いわけ??奥さんだって、なぐさめてくれるかもよ。」

「俺、このことで薫に慰められたら、立ち直れないかも。俺ね、精子少ないらしいんです。」

俺は、ぎょっとした。周りで人が聞いてないか気になったが、幸いにも店の中は適度にざわついていた。多分、小西先生にも聞こえていない。
訳が分からない。
つまり、察するに、時田さんは、男性の不妊に悩んでいたというわけだ。。これは、かける言葉がない。。
でも、このご夫婦と言えば、結婚前から二人で楽しく飲んでたし、ちょっと都会的な感じだし、奥さんも家庭に入るようなタイプじゃないから、そもそも子どもなんか欲しがってないのかと思っていた。
時田さんの目から、ぽろぽろっと涙がこぼれた。
俺は焦るが、時田さんの方は、ぶるぶるっと頭を振って、すっきりした顔をした。
「ああ、すっきりした。誰にも言えなくて、こんなことどう切り出したらいいか分からなくて、もうストレス限界だったんです。ごめんね。前嶋さん。変なカミングアウトになっちゃって。。」
ひとまず、タクシーを呼ぶことは了承してくれたので、タクシーに乗せた。
時田さんは、別れ際に、変な笑顔で言った。
「みんなお幸せにね。」

えらいことを聞いてしまった。やっぱり、誰か、義明でも呼び出すべきだっただろうか。