by前嶋 ひとみ
木琴をもらった週の土曜日、私は、久しぶりに店に顔を出した。
店に来るのは数か月ぶりだ。客席に座るのなんか初めてかもしれない。産後、授乳のおかげでさっぱり手が離れなかった。今日も、実は、優ちゃんに誘われて出てきた。実は、平林さんところのみやこちゃんが、店でサックスを演奏する。
穂香は、前嶋さんのお義父さんと、宇佐美さんと優矢君に預けてきた。
左手が麻痺してから、音楽のことは、しばらく考えないようにしていた。でも、、みやこちゃんの演奏なら、気持ちチクチクしたりせずに見守れるかなあと思った。
ゆったりと、ソファー席に腰かけて、杏子をつまみながら金木犀のお茶を飲む。
久しぶりに、身だしなみにも気を使った。お化粧も、いつもより華やかにしてみた。
みやこちゃんの演奏が始まると、店内の明かりが少し抑えられた。
うまくなったなあと、思う。のびやかな音が、本当に心地よい。。
ぼうっと聞きほれてたら、横に、どかっと腰をおろした人がいた。

「めちゃめちゃいい女見つけちゃった」
彼の香りに包まれる。。顔を上げなくても分かる。
「あっちゃん、こんなところ座ってて大丈夫なの??」
「こんないい女ほっとけないから、今日は貸し切りの札を出そうかと思ったよ。出してないけど。」
彼は、私の腰を抱いた。この店に貸し切りの札はない。
あっちゃんのこういうとこ、お義父さんそっくりだ。

店の子が、注文を取りにやってくる。彼女は、あっちゃんを見て、固まってしまった。私は知らないから、新しく入った子だ。。
注文取りに来たら、オーナーが客席に座っているわけだから、何していいのか分からなくなるだろう。注文取ればいいのか、指示を仰げばいいのか???
「この人、こないだ俺の赤ちゃん生んでくれた人。」と、あっちゃんは、私を紹介した。
「ああ、お手洗いの前の妖精さんですね。」と、彼女は、私の顔をちらちらと見ながら言った。
「そうそう。」
「????」
「ひとまず、今日、奥に置いてあったやつ出してきてよ。」
彼女は笑った。
「かしこまりました。おめでとうございます。」

彼女が行ってから、私はあっちゃんに尋ねた。
「お手洗いの前の妖精って何??」
「ひとみ、知らなかったっけ?」
あっちゃんの目が泳ぐ。何か嫌な予感。
「その話は、後でいいよ。」と、あっちゃんは言った。
「俺さ、今日はひとみに食べてほしいものがあるの。」
何か、明らかにごまかされた気がする。

運ばれてきたのはナシのケーキで、、私の誕生日ケーキだった。
「忘れてたわ、、。」

忘れてた。全く。だって、めでたいもんでもないでしょ。

「これね、俺が作ったの。ひとみが好きなもんだけで作ったから。」
ケーキからは、柔らかいシナモンの香りがした。

みやこちゃんの演奏が終わった後、心地よい拍手が起こって、私も、軽く手をたたいた。
店の中が、しんと静まり返った後、突然、きーーんと、大きな金属音がした。
「ああーー」っと、元気な声もした。
一斉に、舞台の端に視線が集まる。そこには、優那ちゃんが穂香を縦だきにだっこして立ちすくんでいた。
優ちゃんは、明らかに焦っている。
穂香は、お気に入りのばちを手に持って、ブンブン振り回している。
ばちは木製だけど、シロフォンは、店にずっと置いてあったものだ。
かーーんかーーんかーーんかーーんと、でたらめな音程で小気味良い音が鳴る。
小さな笑い声が起こり、、腕をばたばた続ける穂香をだっこしたまま、優ちゃんは舞台袖に退散していった。
私は、小さく悲鳴を上げそうになって、立ち上がろうとしたところを、あっちゃんに押さえられた。
あっちゃんは、人差し指をたてて、唇にあてて、静かにっと、ジェスチャーで伝えてくる。

ピアノの音がした。

納得がいかないものはあったが、穂香の鳴き声が聞こえたわけではないので、もう一度座りなおした。

キラキラ星。懐かしいなあと思う。義明だ。。

義明は、手が大きかったし、しっかりしていたので、ちびっ子の頃から、とても子気味のいいメゾフォルテが出せた。
ピアノやめちゃってから、何年目だろう。まさか、義明がピアノ弾き始めるとは思わなかった。

あの頃みたいにはいかないけれど、それなりに、義明らしい心得た演奏が気持ちよかった。
「あっちゃんは、本当にふざけた生徒だったけど、義明は、ちびっ子の頃は、本当にうまかったのよね。」
「俺はね。ピアノを習ってたんじゃないの。見る目を肥やしてたんだよ。」あっちゃんは、すまして言った。
あっちゃんは、ケーキの上のろうそくを点灯した。
「穂香は、木琴大好きみたいよ。優那ちゃんは、プロだわ。優ちゃんに預かってもらうたびに、できることが増えて帰ってくるの。穂香と一緒に音楽やりたいな。」
私は、笑った。
「どんな楽器でも、やりたければ買うよ。」
「あれがあれば、何もいらない。」私は、手のひらをピアノの方に向ける。
「あれに惚れ込んで、ここで演奏することに決めたのよ。あれに見合う演奏ができるように頑張ろうと思って。」
「親父に感謝だな。あれがひとみさん捕まえてくれたんなら。」
私は、ちょっと迷ったけど、ここらでちゃんと言っとかないとだめだと思った。
「あっちゃん、あきらめないでいてくれてありがとうね。ちゃんと、あっちゃんの奥さん頑張るつもりだから。」
あっちゃんは、ろうそくを指さす。私にろうそくを消すように促す。
ふーーっとろうそくを消すと、あっちゃんはケーキナイフを取り上げた。
あっちゃんは、ケーキを切り分けながら、小声で耳元でささやいた。
「これ食べたら、一回させてよ。」
させてって何を??
あっちゃんは、もう一度私の腰を抱きなおす。
「サイテー」
私は、ツンっと上を向いて流し目で彼を睨んだ。どう考えても、今言うことじゃない。
あっちゃんは、気まずそうに目をそらす。

20代初婚の男に、レスになるかならないかの瀬戸際って、すごいストレスだよね多分。。
何か、かわいそうだから、、私も、耳元にささやき返すことにした。

「今日は無理。でも、、後日善処します。」

あっちゃんは、私のほっぺにチュッとキスした。