by 時田 総一郎
順風満帆。
仕事も、プライベートも、充実していると言う他ない。
俺自身、恵まれすぎていて、だからこそ、この不安を相談できる相手もいない。
付き合い始めた頃、俺は中野薫に夢中になった。何の不安もなかった。

何故なら、その頃、こんなにうまくいくと思っていなかったからだ。

薫と深い関係になるまで、俺はしがない営業マンだったし、そのことに何ら不満があったわけではない。むしろ、それが自分に合っていると考えていたし、薫のような、わがままな大学職員をいなすことにも、それなりの達成感を感じていた。世の中に対して、胸を借りるつもりで謙虚に挑めたし、周りだって、俺のことを「気の利く営業マン」としか思っていなかったと思う。

中野薫は、実は、職員の間では評判が悪い。
「彼女はできる男の論文の前に名前を載せているだけだ」とか、
「彼女はポストと寝た」とか、その言われようは散々だ。

それでも、、彼女は、来年度から教授に昇格することが決まっている。

分かってない連中からすれば、彼女は、できる男を手玉に取っているというわけだ。菱川にしても、俺にしても、彼女が女を使わずに付き合ってきた関係かと言われると、言葉に詰まるものもある。でも、、じゃあ、彼女以外の誰が、俺や菱川や義明君を育てることができたのだろうかと思う。彼女は、けして、できる男を利用したわけではない。事実は全く逆で、彼女は、とても人を育てるのがうまい。俺も、義明君も、菱川でさえ、人として不足しているところまで見抜かれて、彼女の手のひらの上にいる。

彼女は、けしてわがままな大学職員ではない。
俺は、右も左も分からないところから、彼女に育てられたと言っても過言ではない。

うちの会社は国際企業だから、恋人同士の共同研究にも好意的だ。彼女との研究に一目置いてくれている。けれども、旧体然とした公的機関である教育機関としても大学内には、未だに男尊女卑のようなものがある。事務職員に男性はほとんどおらず、教育職員に女性がほとんどいない。分かっていない女性職員の中で女としては変わり者でなければ教育職員にはなりきれない。
一応「できる研究職員」ということになってしまった俺への待遇が良くなるにつれ、学内での中野薫への風当たりは、どんどん強くなっているように思えた。特に、何か一つ劣等感を持っている人間の言いようは本当にひどい。そういうのは、俺がかばっても、菱川がかばっても、余計に酷くなるだけだ。事実を言えば言うほど、聞く方は偏見を強めていく。

彼女は、教育者だ。彼女には、理想(イデア)がある。理想への強い思(エロス)いがある。あの連中に何が分かるのかと思う。つくづく、教育機関には母性が必要だと思う。この大学に、「あの教授は共著者の端に名前を載せているだけ」などと言われかねないような「自分に不名誉な論文」を握りつぶさずに公表させる勇気がある教授が何人いるのだろう。
しかも、去年の熊谷義明の業績にしろ、時田総一郎との共著にしろ、彼女の名前がなければレフェリーが認めなかったかもしれない現実は、なぜ誰もどうにかしないんだろう。
何故みんな、知りもしないのに、彼女が論文一つ一つに貢献していないと決め込んだんだろう。

外野が下らなければ下らないほど、彼女の理想も、そのためにはどんな犠牲もいとわない思いも、神々しくさえ感じられた。それはまるで、底が見えない深い泉のようで、俺には、その全てを理解することはできない。時々、彼女自身でさえ、そこで見失い、傷つき、溺れかかっているように見えることがある。その理想に触れ、思わぬ大役仰せつかった男たちは、、彼女をかばいたいと思う。彼女の理想に共感する。

でも、結局自分はその理想に組み込まれた歯車の一つで、彼女のために何かしたいなんておこがましい感情は捨てるほかないことに気が付かされる。

俺は、本当につまらない男だ。
俺たちが、会社に婚約を報告してから、一年の時間が過ぎていた。
俺たちは、変わらず婚約者のまま、一緒に仕事を続けている。

重ねて言うが、仕事もプライベートもとてもうまくいっていると言わざるおえない。

けれども、ここ最近、俺は、どうしようもない不安をかかえて彼女を抱いている。
仕事に区切りがついたら、、もしくはできたら結婚するという話だった。
俺の母親は、俺たちが、仕事の楽しさから子どもを望んでいないと決め込んだようだ。
俺は、実は、彼女に泣かれてから、一度も避妊していない。
元々、そこまで子どもが欲しかったわけじゃない。
多分、俺の都合だけで言えば、中野薫と仲間たちで、ずっと楽しくやれれば、それはそれで、変な高望みはしなかったんだと思う。
すぐにできると思った。でも、、できないとなると焦ってきた。

俺は、薫にとって初めての男ではない。
多分、薫の初めての男は菱川だ。付き合い始めた頃に、ぼかしたようなことを言われたことがあって、その話はそれっきりになっている。。けれども、自分が薫にちょっと劣等感を持ってしまった時や、結婚話に進展がないことに焦りを感じる時には、いろいろといらない想像をしてしまったりもした。もう、いっそのこと、一回はっきり聞いた方がいいかもしれない。
そうでなくても、彼女の周りには、実は男が多い。

ここにきて、天才中野薫の男という重圧に気が付いてしまった。

菱川が薫にけなされていたときの言葉が、俺にのしかかる。
彼女は教育者だ。有能でなくても、彼女の理想に反する行動でなければ良いと言う。でも、社会は学校じゃない。いつでも正しいってことだって、本当に有能でないと無理なんじゃないかと思う。

彼女は、女という観点からみると、情熱的で、可愛くって、素直で、分かりやすい。

俺は子どもができないことに焦っていたし、彼女が避妊薬飲んでないか疑ってしまったこともある。そんなことあるわけがないのに。。彼女も、付き合い始めた当初と違って、子どものことは言わなくなっていた。結婚のことも。

彼女を疑い、自分に自信を無くし、ひどく抱いてしまったり、思いやりが足りない言葉しかはけなかったり、そんな時に、薫は、えらく不安な顔をする。そういう時には、後悔して、とにかく優しくしようとするけれど、、子どもができないことに、また心がさいなまれたりもする。。