皆が座ったのを見届けてから、亨が背筋を真っすぐに伸ばし、橘さんに身体と目線を向けた。

「まずは謝罪をさせてください。
俺は私的感情で、課内に木元の悪口と取れるメールをバラまきました。
それがこのタイミングであったこと。これは、つまり橘さんを侮辱した事にも直結する。
謝って済む事ではない事はわかっています。
ですが、木元と落ち着いて話をした今、辞表を社に提出するつもりでおります。
本当に申し訳ありませんでした。」


…田所さんが口を開く隙を与えずに、言い切った。

亨は普段、どちらかと言うと一歩引いて人の出方を見極めてから発言をする。そう言う人が、先陣を切って話しをし出す。

これだけで、私には充分伝わった。

亨が真剣である事、そして…田所さんを大切に思っている事。

防いだんだよね、田所さんが「自分が悪い」と公言するのを。


亨の潔い様を複雑な心境で見ている私の右隣で、橘さんが一つフウと大きめの溜め息を吐き出した。


「…って言ってるけど、どうする?木元さん。」
「え?」

予期しないフリに、思わず素っ頓狂な顔を橘さんに向けてしまう。当の本人は苦笑いの様な、私の表情を楽しんでいる様な、そんな顔をして眉を下げた。

「いや、ね?
俺的には、真田さんに侮辱されたと言う感じはあまりなくて、真田さんがくれたチャンスを生かせなかったって方が大きいかなと。」

唇の片端をクッと上げて好戦的な笑みを浮かべる橘さん。目の前に置かれた水の入ったグラスに口をつけた後、両肘をテーブルに置いて、覗き込む様に亨に目線を向けた。


「真田さん、俺を木元さんの相手に選んでくださって光栄です。
でも、結局そのチャンスを生かせず、木元さんとは上手く行きませんでしたけど。
だから俺に対しての罪悪感は必要ありませんよ。ただ…木元さんに対してした事には憤りを感じてはいます。
そして、少なからず、『香りのワークショップ』に支障と動揺を与えた事も。
なので、俺としては、全ての当事者である木元さんに判断を委ねたいなってね。」



…『失礼な話だ』と憤慨してもおかしくないのに。

やっぱり凄い人だな…こうやって角が立たないように上手く話を進める事が出来る。


改めて尊敬の念を抱いた所で、自分に視線が集中している事に気が付いた。


確かに、橘さんは凄いけど、バトンを渡された私は、どうしたらいいのだろうか。


二人のやった事を許す事は出来ない。
かといって、公にしてどうのっていうのは違う気がする。


出せない答えに生じた焦燥感。私次第で二人の今後が変わってしまう事を考えると恐さも少し感じた。


どう…しよう。

皆から視線を外して俯いた瞬間、不意に机の下で左手がギュウと握られる。


隣に少し目を向けたけど、目線が合う事は無い渋谷。

けれど、その手に力を込めると、同じ力で一度握り返され、指を絡められた。

その感触に、鼓動が落ち着いた音に変化して気持ちが前に押される。

この感覚…この前と同じだ。


守られている、渋谷に。



今度は私が少し深く息を吐いた。


「真田課長、あなたのお気持ちはよくわかりました。
橘さんの温情に深く感謝をしなければ、課長だけでなく…私も。」


「橘さん、ありがとうございます」と隣に向いて頭をさげてから、もう一度亨に向き直る。


「課長が今回の件について、反省の念を抱いていて、そう結論を出したのであれば、私は辞表を出す事については止めません。
ただ、私を含め、三課の皆はあなたに守られて来た事は間違いない。だから、皆に本当の事を広めて動揺を与えたくありません。
今回の件については、私としては、ここだけの事としておさめたいと思っています。
そして、退職するのであれば、コンペ終了後にお願いをしたいです。」


私から視線を逸らす事の無い亨の切れ長の目は、相変わらず笑ってはいなかったけれど、冷たさは無く、寧ろ暖かみを帯びている気がする。

納得…してくれたのかな。