本来なら私も『佐々木さんに』と依頼していたと思う。
けれど…この企画書を作り上げた時、イメージに浮かんだのは別の人で、どうしてもその人のデザインが欲しくなった。

「今回は雪さんに依頼をさせて貰えないかと。」

佐々木さんのパンを食べる手が止まって、「ぐ、ごほ!」向こうで雪ちゃんがコーヒーを穴違い。

坪井さんを始め、他の所員さん二人も視線をこちらに向けた。


「今回、私が出す企画には、透明感のある柔らかい描写が必要かなって。
雪さんのデザインには、そう言う力強さを前から感じていて、惹かれていたんです。」

「もちろん、内容を見ていただいてからで構いません」と差し出した、プリントアウトをして来た『企画書』

受け取った佐々木さんは、それを自分で見ずに「雪。」と差し出した。


「真理さんが…わ、私に依頼…?」


震える手でそれを受け取る雪ちゃん。
それを横目で見守りつつ、佐々木さんが再び私に向き直った。

「真理ちゃん、知ってるよね?雪は事務所に入ったのは3年前だけど、メインでやった事は一度もねーよ?本当に雪でいいの?」

「違いますよ、佐々木さん。『雪で』じゃなくて『雪が』いいんです。」

二人を前にして立ち上がり、頭を丁寧に下げた。


「恐らく、私にとっては『最後』の企画になると思います。
だから、『コンペに入賞する』と言う目標ではなくて、『最高の企画を作り上げて、それを現実させる』と言う目標で共に戦っては頂けないでしょうか。」



…後輩が増えて来て、数年前から決めていた事。


そろそろ、引き際かなって。
そして、私自身がどうしてもやりたかった事を実現させるべきかなって。


「神崎雪さん、依頼を受けていただけますか?」

「あ、あの…はい!頑張ります!」

私が笑顔に戻ると雪ちゃんの瞳が潤みを増した。


「雪、くれぐれも真理ちゃんに手を出すんじゃねーぞ…」

頬を突かれてまた赤くなってムキになる雪ちゃんに頬が緩んだ。


大丈夫だよ、佐々木さん。雪ちゃんは昔からあなた一筋でしょ?

…って、何故私は男目線。


いや、もうそんな歳だよね、私も。
恋に一喜一憂するなんて事、もう無縁だと思っていたもんな…


『真理さん…』

不意に渋谷の笑顔が脳裏を過る。
何故かそれが無性に恋しくなって、慌てて口をキュッとつぐんだ。








顔を真っ赤にしながらも嬉しそうに「真理さん、打ち合わせいつにしましょう!」と瞳を輝かせる雪ちゃんの後ろで佐々木さんが優しく笑う。そんな姿に癒されながら後にしたデザイン事務所。


立ち止まって見上げた空。雲の切れ間から強めに射す日の光に目を細めた。


…渋谷もああやって私を見守ってくれていたのだろうか。


『何で撫でるのよ』
『スッピン可愛いから』


あの日、渋谷に会えて、私の気持ちは少なからず浮上した。
それからずっと渋谷には沢山、支えられて来た気がする。

私が辛く感じると、そこにはいつも渋谷が居ていつの間にか気持ちが軽くなっている。

最初は強引で軽いヤツで全然扱えないからどうしようと思っていたはずなのにね。


溜め息まじりに自嘲気味に笑いながら歩き出すと、初夏の風が強めに吹いて、髪を少し攫った。











香りのワークショップが無事に終わって三課も本格的にコンペの準備に忙しくなる7月中旬。


亨の依頼で橘さんとコンタクトをとってあのイタリアンレストランに再び足を運んだ。


亨と二人で行ってみたら、橘さんだけじゃなくて渋谷もいてその後ろには気まずそうに立っている田所さん。


「優香!どうしてここに。」

驚きの表情の亨に知らなかった事は明白で。と言う事は呼んだのは違う人。

「田所さん、今度こそ、真理さんに話があるんだってさ。そして、智ちゃんにも。」


目線があってニコリと小首を傾げる渋谷の横に並び出た田所さんは、メイクが薄めなのか、いつもよりも幼い顔立ちに見えた。けれど、それがかえってその瞳の潤いが綺麗である事を際立たせている。

この間とは、雰囲気が全く違うと感じた。


「亨…亨をその気にさせたのは私なんだから。」
「それは違う!俺が…」
「ちょっと待って?」

言い合いを始めた二人に橘さんが割って入る。

「俺がここに呼ばれたからには、俺に話をわかる様にしてもらわないと。とりあえず、落ち着いて話をする為にも座りませんか?」

さりげなく皆をエスコートするその姿。本当に、大人で落ち着いてて素敵…。

「『橘さんイケメンでクラクラしちゃう』とか思ってないで座りなよ、あなたも。」
「?!」
「見蕩れてんじゃないよ、浮気者。」

いつの間にか隣に来ていた渋谷が、顔をしかめた私を面白そうに笑い、「どうぞ?」と椅子を引いてくれた。