4人での話し合いの後、メールの事に関して私から三課の皆に何かを言う事も無く渋谷もそれに従って何も言わなかった。

課内ではその後も暫くは囁かれていたけれど、世間が夏休みを一ヶ月後位に迎えるこの時期は新規の依頼も殺到するため、さすがに皆余裕が無くなり徐々に噂話は下火になって行った。



亨から「山田さんと三人で食事に行かないか?」と誘いがあって榊さんのお店に足を運んだのは話し合いから一週間後。


突然の誘いではあったけれど、驚きはあまりなかったと思う。会社に同期入社して、一緒にやってきた。プライベートでも曖昧ではあったけれどそれなりに親密な関係だった。そんな亨が私が憧れている山田部長との食事の席をこの時期にわざわざ設ける。


あの話し合いで彼の心境がどう変化したのかは定かではなかったけれど、これは亨なりの“詫び”だとすぐに私の中で理解した。


榊さんは山田さんとの再会をとても喜んでくれて、山田さんもとても懐かしく嬉しそうに昔を語る。
私も山田さんの思い出のお店で一緒に食事が出来て、心底嬉しかったし、幸せな時間を過ごせた。


メールの話をしたのは山田さんが榊さんの所に話しに席を外した10分程の間だけ。
けれど私と亨のこれまでの関係を考えれば、それれで充分だったと思う。


「ここ、山田さんが俺が新人の時に連れて来てくれてさ。それ以来の常連なんだよ。」

赤ワインの注がれたグラスを傾け、昔を懐かしむ様に話す亨はどこか空気が穏やかだった。

「どうしてお前じゃなく、俺をここに連れて来たか不思議だろ?」とワインを口に含む。


「山田さんは俺がずっとお前に劣等感を抱いて苦しんでたのを分かってたんだと思う。言ったんだ、ここで。
『君には君の良さがある。彼女を目指さないでくれ』って。だけど俺は結局それを守れなかった。お前を囲って、自分の力にしようとしてたんだから。」


渋みが口に残ったのか、少しだけ亨の眉間に皺が寄った。


「けど、俺は別に仕事云々だけで囲おうとしてたわけじゃないけどな。」


首を傾げた私に少し苦笑いを見せる。


「お前がまさかあんな風に言うなんてさすがに予測出来なかった。」


私のワイングラスに赤ワインを注ぐと、自分のをまた持った。


「もちろん、説教もかなり応えたよ。けどな…」


グラスに残っていたワインを飲み干すと、一息ついた亨が再び口を開いた。


「『渋谷は渡さない』」


再び私と交わった眼差しはどこか寂しそうでもあり、諦めの色を纏ってもいた。


「あれは本当にショックだった。もう何をしても無駄で俺の所にお前は戻らないとはっきり思い知らされた。」


あれが…ショック?

目を見開いた私に少し眉を下げる亨。


「…今更言い訳がましいけどさ。優香が言ってたことは間違いなく俺の本音だよ。お前ら二人が仲良くしているのを目の当たりにして『どうして俺じゃダメなんだ』って何度も思ってた。」
「と、亨…あの…」


口を開いた私をグラスを持っていない左手で静かに制した。


「俺の気持ちがわかった所で元の鞘には戻らないだろ?相当渋谷に本気でなきゃ、あんな恥ずかしい宣言をするようなヤツじゃないって俺が誰より分かってる。」


“恥ずかしい宣言”…。
まあ…大の大人が言う事ではないよね、確かに。

目線を逸らしてハハッと空笑いをした私を亨は変わらず穏やかな表情で静かに空のグラスをテーブルに置くと、私に深々と頭を下げた。


「ありがとうな、真理。優香を庇ってくれて。あれで俺は冷静になれた。」


亨…気が付いていたんだ、メールの件について最終的に私が田所さんを立てた事。


田所さんとの話し合いに、指名を受けた渋谷はともかくメールの犯人が私に伝わっていないあの状況で、課長と言えど亨が入らなければいけない理由は無かった。
敢えてあの場に留まったのは、田所さんが全てを被り抱え込むのではと思惟したから。

冷静さに欠けていたあの状況でもそれだけは感じ取っていた。


そして、私もそれはどこかでわかっていて。
成り行きではもちろんあったし、上手く責任転嫁しようとしている亨に腹が立っていたのも間違いは無かったけれど、敢えて、田所さんに誤り、亨を叱咤した。


何となく空気をそう読めたのは、亨と私の長い間の関係故、だよね…。


「…あいつは本当に俺に巻き込まれただけだから。俺があいつに甘えなきゃあんな事はしなかった。自分の私欲でお前に矛先を向けた俺が全部悪い。」


改めてそう言い切った彼の心中はきっと田所さんの存在が多くを占めている。


細めの切れ長でどこか冷たい印象を受けていたはずの彼の目は、今は穏やかな光を放っていて、私が見て来た亨のどの表情とも違う優しい顔つきに複雑な気持ちを抱いた。

きっと田所さんと亨は私の知らない深い絆があるんだろう。

皮肉だけど歪んだ亨をまた冷静な彼に戻したのはメールを送った張本人である田所さん。私はそれを助長したに過ぎない。


「すまなかった。謝っても許される事ではないけれど、いずれ橘さんにも謝罪して辞表を出すつもりでいる。」



「そう…」としか言葉をかけられない私に、顔をあげた亨が見せた控えめな笑顔。
それがそのまま脳裏に焼き付いた。



…これから、二人はどうなるんだろう。



亨と山田さんとの会食から三日後の朝。

会社を出てから思いを馳せてふと見上げた空は、降っていた雨雲が足早に動いて青空を少しだけ覗かせていた。雲の切れ間から射す強めの光がアスファルトから水気を取って行く。蒸す様な空気をビル風が煽る中、また人の行き交う通りを駅に向かって歩き出した。


やった事はもちろん許せないけど、私のして来た言動が二人を歪ませてしまったと言うのは、本当なんだと痛感している。

…少しずつでも変わらなきゃ、私も。

乗り込んだ電車の車窓から見える景色に向かって、気持ちを新たにすべく息を吐き出した。