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それは雨が強く降りしきる日だったって思う。


『優香…ごめん。別れて』

いつも二人で通っていたイタリアンレストランで食事をしてから送ってもらった自分のアパート。

亨の様子がおかしいのは気が付いていた。苦手なはずのマルゲリータに乗ったバジルを気にもせずに食べていたから。

ううんその前から、ずっと様子はおかしかった。



亨は私が高校生の時に家庭教師をしてくれた近所の大学生のお兄ちゃんで。歳こそ5歳位離れていたけど、本当に仲がよかったと思う。

私が大学に合格してそこから恋人という関係になるのは自然な流れで、このまま就職して、結婚して…そんな平和な道筋を漠然と考えていた。

なのに、亨が就職して三年程過ぎた頃、別れを切り出して私に深々と頭を下げた。


『どうしても放っておけない人が出来た。』


もちろんショックだった。
ずっと円満にやって来て、何でも分かり合える程の関係だったのに。

だけど…だからこそ、その女性に本気なんだと諦めざるを得なくて…断腸の思いで亨の幸せを願って別れた。


亨を失った穴はとても大きかった。
毎日がこんなにも静かで寂しい物だったのかと、何度も泣いた。


だけど、私を思い出に留まらせたまま時間は無情にも季節を変え過ぎて行く。

このままではいけないと、踏ん切りを付ける為にこっそり見に行った『亨の好きな人』。

凛としていて真っすぐに前を見据える眼差しを持ち、ピンヒールを鳴らして颯爽と歩く。そんな人だった。

女の私でもそのオーラに目を奪われる。

仕方がない。
私もこれから頑張ってあんな風な素敵な女性にならければ。


その時点では前向きだったと思う。


だけど、漸く立ち直り、前を向ける様になった私の元に亨は連絡をくれる様になった。

久しぶりに会う様になった亨は、女遊びが派手になっていて大好きだった余裕のある柔らかい笑みはなくなり、口元だけが弧を描き目は冷めた光を放つ人に変わっていて。

うまく…いっていないのかな?

付き合っていた時より大分痩せたその体つきに徐々に心配が募る。

でも私はもう彼女ではないんだし知らないフリをしていないと。
心に釘を指して、一生懸命に亨に笑顔を見せていた。


そんな頃だったと思う、木元さんに再会したのは。

運命のいたずらだったとしか言い様が無いと思った。

たまたま異動で配属になった東栄デパート本店で、橘さんの『香りのワークショップ』を担当する事になって、亨の会社が企画立案をする事になり、そのリーダーが彼女だった。

再会したイメージは昔見た時と全く変わっていない。

寧ろ、年を重ねて地に足がつき、女性としての落ち着きと色気が増した感じで長年目標としてきたその人は、更に届かない所へ行ってると虚無感にさえ駆られた。

そんな時だったと思う。
亨から誘いがあって、イタリアンレストランに足を運んだのは。


『課長に昇進した』

そう言いながら浮かない顔をしてる亨。


『…嬉しくないの?』
『や?すごく嬉しいよ…。』

不思議に思って首を傾げた私に苦笑い。

『プロポーズをしようと思ったんだけどね…。その前にあっさりフラレてさ。』

バジルの乗ったマルゲリータをそのまま口へと放り込んだ。


『やっぱり、あいつは誰も寄せ付けないって事だったのかもな。”俺は違う”ってちょっとは自惚れていたんだけど。』


目の前で今にも泣きそうな笑顔を見せる彼に、気持ちがギュウッと痛くなる。

大好きなお兄ちゃんを、大好きな亨を…こんな風に変えてしまうなんて。

何とも思わないの?あの人は。

亨が課長に昇進してからも、彼女は相変わらず凛として綺麗でバリバリ仕事をこなしてた。その上、亨と別れた直後だと言うのに年下の男性と雰囲気が良くなっていて。


…長年一緒にいてくれた亨を捨てて新しい男に切り替えたんだ。
しかもワークショップの中心人物である、橘さんに取り入って上手く立ち振る舞って天秤にかけている。
この人は、凛としていて綺麗なんかじゃない。ただ、人を翻弄してワガママに生きているだけ。


虚無感の矛先が長年『仕方ない』と押さえ込んで来たモノに刺激を与えてその黒い感情は勢いよく心を蝕んでいく。


あんな女…立場を失って苦しめばいい。

気落ちしている亨に優しい笑顔を向けて、悪魔の言葉を囁いた。

『私はずっと、味方だよ…。』