渋谷がくれた靴はサイズもぴったりで履き心地も良かった。

どうして私の靴のサイズを知っているんだろうと不思議に思ったけど「良かった、履けて」と笑う渋谷に悪い気はしなくて、そのまま二人で手を繋いで水族館へと入った。


小さな入り口をくぐると、薄暗い照明に変わって目の前にいきなり大水槽が広がる。

「わ…っ」

突然の開放感に思わず声をあげた。

無数の魚達が光を背に悠々と泳いで、ポコン、ポコンと気泡が煌めきを放ちながら浮かび上がって行く。

…建物の外とは、入った瞬間に別世界だ。

右奥に違う色のライトが角度を変えて設置されてる。左奥には普通の白いライト。そうか、交差する事で少しずつ光の案配に変化を齎しているんだ。

それから、魚達のストレスも考えて見る人側を暗くしてあって、だけどそれは魚を浮かび上がらせるって効果もあって…空調にもきっと気を使ってるんだろうな。
湿度が高いけど、梅雨に感じる肌寒い不快感は無い。

それから…


そこで気が付いた。

繋いでたはずの手はいつの間にか離れていて、私は水槽にぺったり張り付いてる。
一歩後ろでは、面白そうに笑っている渋谷の姿。

ああ…やっちゃった。
私の方が年上なのに、こんな…相手をほったらかしにして盛り上がるなんて。


「ご、ごめん…つ、つい。」
「や?気に入って貰えて何より。」


隣に立って、私の頭をヨシヨシと撫でる渋谷。


「やっぱ、俺はわかってんでしょ?
今日は沢山歩いたり走ったりするから、ヒールが無い方がいいって。」


私の頭を少し引き寄せて、軽くキスをした。


「キスするにも不便はないし」
「し、しなくていい!」



…渋谷は拒んだ私をどう捉えたのだろう。

車の中、胸元を押した私に一瞬寂しそうな笑顔を見せただけで「じゃあ…行きます?」と靴を差し出した。

そこからはずっといつもと変わらない調子で。


「渋谷!あの人獣医さんだって!獣医さんが解説してくれる魚に直接触れるとか凄い!あの獣医さんイケメンだね~。飼育員さんもイケメンだし。集客ありそう」

「…あ、サメが来た。ほらエサ、ここにありますよ~」

「えっ?!ちょ、ちょっと手、離してよ!水槽から出さないと…さ、サメが手、つついてる!」


ショーやイベントに夢中な私にちょっかい出しては笑ってた。













久しぶりに来た水族館は本当に楽しくて。時間を忘れて遊んでいたんだと、外に出てから気が付いた。

…もう、だいぶ日が傾いている。


「ありがとう、渋谷。連れて来てくれて。
本当にショーも素晴らしかったし、イベントもどれも楽しかった。」


沢山、勉強にもなったしコンペに出す企画のアイディアを貰えたかも。


「渋谷、お腹空かない?
こんな素敵な所に連れて来てくれたのと靴のお礼に夕飯奢るよ!」


渋谷は言った私を何だか楽しそうに笑った。


「な、何…?」
「いや?別に。真理さん、何食べたい?」
「えー…私が奢るんだから、渋谷が食べたい物にしようよ。」
「…だからさ、そうなっちゃうとね?」


立ち止まって、私を黒縁眼鏡越しに覗き込む。


「真理さんが食い…「下ネタ禁止」
「下ネタではありません。本音だもん」
「余計禁止です。」


目を細めて睨んだ私を変わらず楽しそうに見ている渋谷は、優しい眼差し。
見つめられるって、こんなに嬉しいことだったっけとしみじみ見つめ返した。


不意に横から風が吹いて髪が頬をかすめる。
それを渋谷の指先が捕らえて、耳に戻した。


「…真理さんの手料理がいいな。」
「わ、私の?」
「そう言うの苦手だったらいいけど。」
「作れる物と作れない物があるけど…何がいいの?」
「ん~…じゃあハンバーグ。」


ハンバーグか…まあ、作れなくはないけど。


「という事は、渋谷の家に行くか、ウチに来るってこと?」

「車が泊められんのが明白なうちにします?あ、でも明日出勤が困る?同じ服…まあ、誰に会ったわけでも無いからいっか。」

「泊まらないし。」
「はいはい。」


…あしらわれた。


立ち止まった私に渋谷が少し眉を下げて振り返る。


「…わかったって。襲わないから、俺の部屋に来て?」


渋谷の丸っこい掌が目の前に差し出された。そこに自分のを乗せると当然の様に包まれる。

暖かいな…渋谷の手。


『渋谷と居られるならどこだっていい』


脳裏を掠めたその気持ちを慌てて追いやった。


…渋谷と一緒に居るのはこれっきり。それだけは、ちゃんと自分に釘をさしておかないと。