しあわせ

雨が降っていた。ぱたぱたと窓を打つ雨音が沈黙を取り持っていたせいで話し合いが進まないまま一時間が経っていた。
こうなる事はどこかで分かっていた。初めて会い目を合わせた瞬間から彼とはこうなるという予言めいた確信すらあった。

ヤマダはかわいい人だった。11歳年上の相手に使うべき言葉かは分からないけれど、例えば犬や猫や赤ん坊に自然と口許が緩むような柔らかい愛らしさがある人だった。
160センチのわたしが見上げなければ目線を合わせられないような長身を、窮屈そうに無理やり曲げた猫背が彼を小さく見せた。よく着ていた英字プリントのロンT達はどれも煤けたように変色し首元がすっかり伸びていて彼のように全体がくったりと萎れていた。
ヤマダはのんびりとマイペースで愚鈍に見える穏やかさがあるのに、実は猫のように俊敏に動けて、ロケットのように50メートル先へ走っていけた。それは宇宙へ行けるような立派なロケットじゃなく、小学生の時に作ったペットボトルのロケットのように弱々しかったけれど。
隣にいる彼を、わたしはそうやってよく観察した。見上げるわたしと目が合うと彼はなに?という顔をしておどけたように唇を突き出し、一拍おいて目を細め笑った。微笑んだ唇の隙間からは八重歯が見えて、わたしはその顔がとても好きだった。

「ササはどうしたい?」
不意にヤマダが口を開き、雨音が部屋の中から遠ざかった。顔を上げるとヤマダが煙草に火を点けるところだった。
「どうしたいって」
わたしが?言いかけて飲み込んだ。
45センチ四方の水色が所々はげた簡易テーブル越しに、ヤマダが吐いた煙草の煙が顔を撫でにくる。またわずかに顔を下に向ける。
「どうしたいかって、あるでしょう?ササにも」
「ササにも、ってことはヤマダにもあるんだよね?わたしは今日それを聞きに来たし、先に聞かせて欲しい」
「俺は、わかるでしょ?」
「わからない、言ってくれなきゃ。わたしはヤマダじゃないし、だから、それを聞きに来てるんだよ?」
はあ、わたしに届くよう大げさにため息を吐いたのが分かる。
「もう、めんどくさいな。分かってるんでしょ?」
子供じゃないんだから。突き放すように言って、向かい合っていたわたしから顔をそらすように右を向き、片膝を立てて壁にもたれかかるとヤマダは煙草を大きく吸い込む。
その態度に、頭の中心から湧き上がるような怒りが震えになって体を揺らす。
そのまま怒りをぶちまけてしまいたいのを堪え、ヤマダの後ろにある窓をみる。窓の外はまだ雨が降っていて、1メートルは離れたこの場からでも見える大きな雨粒が窓を叩いていた。


初めてヤマダの部屋に行った日、築46年のアパートの階段の前に茶虎の猫が1匹いた。ヤマダは、この猫にたまにエサをあげてるんだと何故か恥ずかしそうに言った。わたしにも餌付けして。と目を見ながら言うとヤマダは一瞬無表情になってから視線を外し、またまた。と呟くように言った。
照れてる、と思った瞬間に胸が苦しくなるような愛おしさが爆発して、目の前の景色が鮮明になり明るく見えた。好きだと確信した。
部屋の鍵をあけて中に入ると、い草と煙草と僅かな柔軟剤の匂いがして、その匂いすら好きだと思い、きっとわたしはこの人のことが大好きになると分かった。
大好きになり、全てが欲しくなり、