しあわせ

わたしは幸せがなにか知っている。
南向きの窓があるリビングのソファでテレビもつけず音楽を聴きながら本を読む陽射しの暖かい朗らかな午前中、膨らんだ重たいお腹にたまに感じる胎動、仕事に行った夫から携帯にメールがきて顔を思い浮かべながら愛してると思う時間。
または、陣痛がきて獣のように発狂し暴れるわたしの傍らそれでも手を握ったまま離さず涙を浮かべる夫がいる分娩室。
産まれた我が子の赤い顔、甘い匂い。
泣きながら喜ぶ夫の、頑張ったね。とわたしの頭を撫でる優しい手。
この幸せとずっと一緒だと信じて疑わなかった。
この三人だけがわたしの世界で、その世界が壊れる日が来るなんて恐ろしい事を想像の中ですら考えた事が無かった。
思えば、わたしはわたし以外の他の女に勝てると思った事がない。どの女もわたしより、数歩先にいる気がしている。競った時にわたしはきっとどの女にも劣る。
取り繕ったうわべだけの関係のうちは、大抵の女に勝てる自信がある。でも中身が重要になる深い関係になれば、わたしにはなんの魅力もない。素直に甘える可愛げもない、包み込む思いやりも寛容さもない、まず男を愛す方法が分からない。
夫はだから、わたしから他の女へ逃げた。
自分を思いやり、愛してくれる女へ。
ルイは、もう俺のこと愛してないんだろ?
夫の浮気が判明した後の何度目かの話し合いの最中、夫はわたしにそう聞いた。冷たい態度しか取っていなかったわたしへの不信感が露わになった瞬間だった。そうだったかもしれない。わたしが言った時、夫はその話し合いで初めてぽろぽろと静かに涙を流した。
俺が絶対幸せにしてあげるからな。
わたしは夫の泣き顔を見ながらぼんやりと、結婚してすぐの頃スーパーのレジに並んでいる最中に夫が言ってくれた言葉を思い出していた。わたしはその時、なんて答えたんだっけ。
「俺はルイから過去の話とか全部聞いて、この子には俺が無償の愛をあげなくちゃってずっと思ってた。だからずっと、我慢してた」
泣きながら彼は静かに言った。
それを聞いた瞬間、だからわたしはあんなに幸せだったんだと妙に納得した。
42度のお湯の中にいるような柔らかい幸せは、普通なら新幹線で2時間ちょっとかけて遠出した先にある源泉掛け流しの温泉と同じだったのだ。でもわたしは365日、夫がなにも言わずせっせと汲んできてくれていた温泉に浸かり幸せだと思っていた。夫は毎日2時間ちょっとを往復し、疲労した身体を自分は温泉で癒す事なく今日まで来ていたのに。
実際わたしは幸せだったから。人生で一番、夫といた数年が幸せだった。絵に描いたような幸せ。宝物のような日々。どこを切り取っても幸せしかないような時間だった。
でも。彼には違ったのか。わたしのために彼は自分を犠牲にしていたのか。なら。わたしは身を引くべきなんだろう。だって。わたしは事実幸せだった。わたしだけが。
夫を信じて話したわたしの全ては、彼の重荷になり、彼を幸せの犠牲にさせた。わたしが彼に寄りかかりたいがために曝け出した弱みを、彼はわたしが思う以上に重く真摯に受け止めていた。
彼は責任感が強く仕事熱心で誠実で家族思いで、そして若かった。わたしたちは若かった。

夫と電話をした。わたしはすがりつき、夫は拒絶した。別れたくない、何で、お願い、わたしが幸せにするから、お願い、一緒にいて。
彼はわたしを拒絶した事が無かった。いつも優しく受け入れ、抱きしめ、恥ずかしくなるほど愛を囁いた。
その彼が泣いてすがるわたしを初めて拒絶した。
ごめん、手と手を取ってもう生きていける自信がない。
そのたった一度の拒絶が、世界の終わりだった。彼はいなくなった。わたしの世界は足元から崩れ、わたしはわたしとして生きることができなくなった。彼がいないわたしはもうわたしじゃなくて、世界は180度変わり、この目から見える景色も人もわたし自身も、全て消えて、新しいわたしが現れた。
電話を切った後、はらはらと涙が溢れ、これが本当に現実なのか分からなくて呆然とした。胸がぎゅっと痛み、その痛みは焦燥感に似ていて落ち着かず、その痛みをどうにかしたくて大声で泣き叫んだ。このまま死のうか。考えて子供の事を思い出す。あの子がいれば。あの子とこの宝物のような日々の想い出さえあれば、わたしは生きていける。子供を産んだあの日、わたしはこの先何があってもこの想い出さえあれば生きていけると思った。ああ、でも、この想い出にさえ夫がいる。夫がいるから宝物になり得たわたしの大事な想い出。あの世界。
浮気くらいどうでもいいよ、あなたがいなくなることに比べたらそんな些細なこと、もう忘れるから、お願い、次はわたしがあなたを幸せにするから、お願い、いなくならないで。

夫と別れて三年、子供は小学校へ入学した。
入学式に一人参列する事に違和感しかない。
なんで夫はここにいないんだろう?寝坊?転勤?ずっと一緒だって言ったくせに。
入学までには家を建てたいね、無邪気に計画しあったことまで思い出す。
わたしはなんでここにいるんだろう。
世界は変わった。生活は変わり、価値観も変わり、それに伴い友人関係も変わった。
わたしの窮屈で痛々しい世界は、コンクリートの上に捨てられたペットボトルのように歪に潰れていて、下半分は破裂したようにちぎれてもう元には戻らない。
あれから何人かと付き合った。
浮気もしたことが無く、男女関係に潔癖なほど真剣だった昔のわたしが見れば、嫌悪感を露わにするような自由さで男と遊んだ。一晩限りや勢いだけで寝ることは無い体の関係のないものだけれど、自己責任の中で無責任に男と遊んで気を紛らわせた。
今は自分から不自由を選び、恋人を作った。
優しく、でもどうしようもなさそうな、不安定な幼さの残る単純で自堕落で無頓着な、夫とは正反対の年上の彼氏。
今の彼はわたしを適当だと笑う。
その度に夫にはよく、ルイはしっかりしてるねと褒められていたことを思い出す。
わたしはずいぶん遠くまできた。
本当のわたしを亡くしたままここまで来て、なら本当のわたしなんて結局本当なんかじゃなく、今のわたしがもうただ本当のわたしなんだろう。砂糖ばかり使われているおもちゃみたいにカラフルなお菓子のように、安っぽく脆く下品な存在のわたし。
自堕落で自由で無頓着で能天気で自分で死ぬ事を考えない世界で生きるわたし。
何かをなくした焦燥感は胸が痛くて耐えられず、わたし自身が順応することのほうがずっと簡単だったから、わたしは空のペットボトルになってコンクリートの上に身を投げた。
それでも世の中は流れていくし、わたしの全ての延長線が延々に先まで伸びているのも見える。
子供にひらがなを教え直すのも、ベランダから見える向かいのアパートの屋根に落ちる雨が水溜りになるのも、ハンバーグのタネが手から床に落ちるのも、借りていたDVDの返却を忘れるのも、近所の薬局が営業時間を0時に伸ばしたことも、全てわたしの延長線上だ。
子供がもう眠いから寝るとベッドに入って3分で寝息を立て始めたのを確認して、お風呂に浸かった。
給湯器は42度でお湯を沸かしてくれていて、四方いっぱいにお湯が張られた湯船に勢いよく肩まで浸かる。
お腹の中がふわふわするような温かさが足の先まで辿り着いた時、もう春が来るんだなと思って、涙が止まらなくなった。