あいたい、と呟いた声が店の喧騒に紛れ流れていく。
なけなしの勇気で言葉にしたのに、精密機器を通した機械の声では喧騒のなか水のように流れて溶けて彼には届いていないようで、え?ちょっと何処にいる?ずいぶん賑やかだね、と苦笑された。
もう一度言え、もう一度言え。
頭のなかでは自分を奮い立たせる自分がいるが、口がうまく動かない。
黙ったまま5秒、これだけの間が出来てしまったらもう言えない。
「きょう、は、飲み、会、で」
「ああそうなの。酔ってる?」
「う、うーん、すこー、し」
「だろうね。ずいぶんカタコトだから」
ふふっ、と空気が漏れたような笑い声が電話越しにガサガサと鳴る。彼の口から出た空気がたてた音だと思うと愛おしくて思わず黙った。そのせいで妙な間があく。わっはははは、どこかの席から聞こえるおっさんの笑い声がひどく楽しそうにひときわ大きく響いて、思考がぼうっとおっさんの笑い声に引っ張られてフリーズする。
「……まだ飲み会の最中じゃないの?」
「えっ?あ、あー、うん」
「今からなら帰りはタクシー?」
「うん、そう、かな」
「迎えに行こうか?」
予想外の言葉に、喉が一瞬で水分を失ったようにひりついた。子宮がぎゅうっとあがるような感覚が胸にまで響くように苦しくて、息がしにくい。
「ほ、ほんと?本当に?うん、うん、うん、お願いします」
「うん。どうせ暇だったし。どこで飲んでる?」
「駅前!」
「もうすぐ帰れる感じ?」
「うん、帰れます」
あなたに会えるなら何をしてたってすぐに帰るよ。その言葉は重たいので飲み込んだ。例えばここが宇宙で、地球から100万光年離れた未踏の惑星にやっと辿り着いた瞬間だったとしてもわたしは迷わず帰る。わたしには人類の未来よりも技術の進歩よりもわたし自身よりも、彼に会えることがなによりも大切でこの宇宙の中心だった。勿論そんな言葉は重力より重たいので飲み込む。言葉に重力があるのなら、これを全て言ったときには何Gかかっているのだろう。彼は潰れるかもしれない。
「そっか。じゃあこれから出るわ。10分くらいで着くと思う」
「 わかった。……ありがとう」
「うん。また着いたら電話する。じゃあ後で」
ああ。思わず声が漏れる。もう死んでもいい。
多幸感が胸に苦しくて息がしにくい。
両頬を手のひらで覆って何度も息を吐く。
あ。唐突にべたべたした顔に気付く。朝8時から化粧したままの顔で会うわけにはいかない。
すぐさまトイレに駆け込み、薄くパウダーをはたきチークを塗り直しグロスを塗る。
まつ毛は?シャドウは?
本当は今すぐ顔を洗って一から化粧し直したかったが、ベースメイクを何一つ持っていない。
完璧な状態のわたしで彼に会えないことを意味している。
早まっただろうか。
酔った勢いで電話してしまった事を早くも後悔しだした。
最近仲良くなった二個上のユミが誘ってきた合コンの最中で、女三人男三人、今は開始から一時間半。
三人の男は三十代前半、1人はスーツで他2人は私服だった。スーツの男は不動産業者らしく、派手な時計やサテン地のネクタイがいかにもやらしく胡散臭い。私服のふたりもベージュとデニムのジャケットを羽織り、スキニーパンツにクラッシュデニム。ブランドの財布にブランドの眼鏡にこれでもかとキラキラさせたいかつい時計をつけて笑っていた。その瞬間にその空間全てに現実味がなくなり、脳内でいかに上手い嘘でこいつらを騙せるか選手権に切り替えた。
こいつらもどうせ、わたしたちが本当はロボットだろうがラブドールだろうが穴があれば関係ないぐらいにしか考えてないはずだ。
虚勢自尊心見栄意地自己憐憫……。
適当な嘘とその場しのぎの冗談と笑顔できゃはきゃはしているうちに酒は回り、頭の中には彼しかいなくなった。
会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい。
時間は21時21分。電話をすれば出てくれるであろう時間のはず。会えなくてもいいから声だけでも聞きたい。
「ちょっとトイレ」
彼とならわたしは死ねると思えるほど好きだった。好き。陳腐で簡単で安い言葉。でもわたしの「好き」には、命がかかっていた。
本当はわたしが持つ語彙力すべてを今この瞬間彼のためだけに総決算してわたしがいかに彼を思っているか伝えたかった。
でもわたしの言葉ごときが彼に重みを与える事が許せず、そしてその重みを彼が受け止め切れずに上手い言葉で相殺し、流し、なかったことにすることが怖かった。
怖かった。消されてしまうという事はわたしの全てを否定されることと同じだからわたしは怖かった。
結局は自分のため。自己保身。命は容易く捨てようとするくせに、生きたまま心が傷つく事には耐えられない。
心?心というよりは彼への幻想めいた想い?
宝物のように傷一つつけないように大切にしている彼が好きというこの想いに、例え彼であろうと傷をつけて欲しくなかった。純粋なようでいて、独りよがりで保守的なうえに欲で覆われた黒や緑や灰色めいた想い。
この想いは今わたしの全てを支配している。行動、気力、言葉、表情……ならこの想いがわたし自身だろう。この想いが今のわたしを作っているのだから、きっと彼を好きになる前のわたしとは全くの別人で、人は変わらないなんてわかった風にみんな悲しげな顔して言うけど、人は変わる。なら彼を好きになってから知り合った人たちは本当のわたしを知らないはずだ。
すごく好きだった人
↓
傷つく
彼氏のために風俗とかして
↓
反省して穏やかに変わる
↓
でも結局かわれず
何度か爆発する
自己嫌悪
なけなしの勇気で言葉にしたのに、精密機器を通した機械の声では喧騒のなか水のように流れて溶けて彼には届いていないようで、え?ちょっと何処にいる?ずいぶん賑やかだね、と苦笑された。
もう一度言え、もう一度言え。
頭のなかでは自分を奮い立たせる自分がいるが、口がうまく動かない。
黙ったまま5秒、これだけの間が出来てしまったらもう言えない。
「きょう、は、飲み、会、で」
「ああそうなの。酔ってる?」
「う、うーん、すこー、し」
「だろうね。ずいぶんカタコトだから」
ふふっ、と空気が漏れたような笑い声が電話越しにガサガサと鳴る。彼の口から出た空気がたてた音だと思うと愛おしくて思わず黙った。そのせいで妙な間があく。わっはははは、どこかの席から聞こえるおっさんの笑い声がひどく楽しそうにひときわ大きく響いて、思考がぼうっとおっさんの笑い声に引っ張られてフリーズする。
「……まだ飲み会の最中じゃないの?」
「えっ?あ、あー、うん」
「今からなら帰りはタクシー?」
「うん、そう、かな」
「迎えに行こうか?」
予想外の言葉に、喉が一瞬で水分を失ったようにひりついた。子宮がぎゅうっとあがるような感覚が胸にまで響くように苦しくて、息がしにくい。
「ほ、ほんと?本当に?うん、うん、うん、お願いします」
「うん。どうせ暇だったし。どこで飲んでる?」
「駅前!」
「もうすぐ帰れる感じ?」
「うん、帰れます」
あなたに会えるなら何をしてたってすぐに帰るよ。その言葉は重たいので飲み込んだ。例えばここが宇宙で、地球から100万光年離れた未踏の惑星にやっと辿り着いた瞬間だったとしてもわたしは迷わず帰る。わたしには人類の未来よりも技術の進歩よりもわたし自身よりも、彼に会えることがなによりも大切でこの宇宙の中心だった。勿論そんな言葉は重力より重たいので飲み込む。言葉に重力があるのなら、これを全て言ったときには何Gかかっているのだろう。彼は潰れるかもしれない。
「そっか。じゃあこれから出るわ。10分くらいで着くと思う」
「 わかった。……ありがとう」
「うん。また着いたら電話する。じゃあ後で」
ああ。思わず声が漏れる。もう死んでもいい。
多幸感が胸に苦しくて息がしにくい。
両頬を手のひらで覆って何度も息を吐く。
あ。唐突にべたべたした顔に気付く。朝8時から化粧したままの顔で会うわけにはいかない。
すぐさまトイレに駆け込み、薄くパウダーをはたきチークを塗り直しグロスを塗る。
まつ毛は?シャドウは?
本当は今すぐ顔を洗って一から化粧し直したかったが、ベースメイクを何一つ持っていない。
完璧な状態のわたしで彼に会えないことを意味している。
早まっただろうか。
酔った勢いで電話してしまった事を早くも後悔しだした。
最近仲良くなった二個上のユミが誘ってきた合コンの最中で、女三人男三人、今は開始から一時間半。
三人の男は三十代前半、1人はスーツで他2人は私服だった。スーツの男は不動産業者らしく、派手な時計やサテン地のネクタイがいかにもやらしく胡散臭い。私服のふたりもベージュとデニムのジャケットを羽織り、スキニーパンツにクラッシュデニム。ブランドの財布にブランドの眼鏡にこれでもかとキラキラさせたいかつい時計をつけて笑っていた。その瞬間にその空間全てに現実味がなくなり、脳内でいかに上手い嘘でこいつらを騙せるか選手権に切り替えた。
こいつらもどうせ、わたしたちが本当はロボットだろうがラブドールだろうが穴があれば関係ないぐらいにしか考えてないはずだ。
虚勢自尊心見栄意地自己憐憫……。
適当な嘘とその場しのぎの冗談と笑顔できゃはきゃはしているうちに酒は回り、頭の中には彼しかいなくなった。
会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい。
時間は21時21分。電話をすれば出てくれるであろう時間のはず。会えなくてもいいから声だけでも聞きたい。
「ちょっとトイレ」
彼とならわたしは死ねると思えるほど好きだった。好き。陳腐で簡単で安い言葉。でもわたしの「好き」には、命がかかっていた。
本当はわたしが持つ語彙力すべてを今この瞬間彼のためだけに総決算してわたしがいかに彼を思っているか伝えたかった。
でもわたしの言葉ごときが彼に重みを与える事が許せず、そしてその重みを彼が受け止め切れずに上手い言葉で相殺し、流し、なかったことにすることが怖かった。
怖かった。消されてしまうという事はわたしの全てを否定されることと同じだからわたしは怖かった。
結局は自分のため。自己保身。命は容易く捨てようとするくせに、生きたまま心が傷つく事には耐えられない。
心?心というよりは彼への幻想めいた想い?
宝物のように傷一つつけないように大切にしている彼が好きというこの想いに、例え彼であろうと傷をつけて欲しくなかった。純粋なようでいて、独りよがりで保守的なうえに欲で覆われた黒や緑や灰色めいた想い。
この想いは今わたしの全てを支配している。行動、気力、言葉、表情……ならこの想いがわたし自身だろう。この想いが今のわたしを作っているのだから、きっと彼を好きになる前のわたしとは全くの別人で、人は変わらないなんてわかった風にみんな悲しげな顔して言うけど、人は変わる。なら彼を好きになってから知り合った人たちは本当のわたしを知らないはずだ。
すごく好きだった人
↓
傷つく
彼氏のために風俗とかして
↓
反省して穏やかに変わる
↓
でも結局かわれず
何度か爆発する
自己嫌悪
