なんにもなかったように笑って、
必要以上に落ち込んだ自分を見せる事もなく、
愚痴も悪口も言わず、
たまに笑って核心を話してみるけど、すぐ楽観的な否定でごまかしたら、なにかが根底にあるなんて思われずに済む

昼間から酒ばっか飲んでる事がわたしの不安定さだとは思われずに済むし
わたしの核心がばれずに済む

まあそもそもそんな大袈裟ななにかがわたしの中にあるかも疑問だし

いつか際限なく延々酔えてたらその間に世界が変わってんじゃないかと思うんだけどそういうわけにもいかず

なにかを失った喪失感がいつまでも消えずにもがいた現実逃避の末に、今までならありえなかった生き方を選んでる

月が綺麗な晩だった。色んな男と遊んで、気紛れに彼氏を作って、浮気して、その彼氏に浮気がバレて、わたしの現実逃避とわたし自身が作り出した渦に彼氏と名のつく人間を巻き込んでしまったすぐ後だった。
彼氏という口約束だけの存在は、その事実にずいぶん傷付いたように怒り続けた。
わたしにはそれが本当にわたしを愛しているからこその怒りなのか、単にプライドを傷つけられた事による怒りなのか判断がつかなかった。
離婚後のわたしの中の彼氏への存在価値はいかにわたしを愛してくれる人かしかない。
愛してくれないのなら他人のしかも異性と一緒にいる意味がなかった。
もう息を吐くことさえため息に変わるような恋愛はしたくなかったし、心配せずとももうそんな風に恋愛につきうごかされるわたしがいなくなっていた。体を揺らせば奥からカラカラと音がなるような穴が心臓の周りにぽつぽつと空いているようで、ずっと締め付けられるように痛いまま生きている。それでも生きなきゃいけないのかと自嘲してしまう。

昼間から酒をのんで、沢山の異性で穴を埋めて、それでわたしの不安定さが癒えることを期待したのに、結局そんなこともなく

空いた穴があまりに大きくて、未だに泣いてばかりいると、もう立ち直ることはないんだと思ってしまう

誰かに助けて欲しかった
それは一番大好きだと思えた人だったけど、その人と一緒にいれる自信がなかった

暗い夜道の中を一人で歩いて、たまに曇った外灯の明かりが照らすような日々だった。

敬老の日が祝日だと知らなかった。
観たいと思った映画が好きな監督だったことで運命を感じて、映画館が併設された大型ショッピングモールへ一人で来て、午前上映の映画を観終わり外へ出てみると恐ろしい人の波ができていた。
何故平日にこんなに人が溢れているのか、ビールを3杯飲んだ頭でよくよく考えてみると、今日は敬老の日ですぅ。と語尾を伸ばして微笑む女子アナの顔が浮かんだ。
ああ敬老の日は祝日なのか、と思った瞬間に虚しさがこみあげた。
祝日も休日も関係ないわたしは、誰にも必要とされていない気がした。
長い列が出来たチケット窓口を横目に

敗北経験が無いから、この人はわたしの愛を信じられたのだろうか。自分が愛されていない事を想像すらしなかったのだろうか。
いや、浮気された事実が明確な今もきっとその想像には至っていない。
自分は愛されて然るべき人間だと思っている。
今まで自分が好きだと思った相手に自分から積極的に迫り、それを断られた経験がないと彼はいつか得意げに話していた。
わたしもその中の1人なのだから、彼が自分の成功経験にわたしを上塗りすることはなにもおかしい事ではない。
でもだからと言って、自分がいちばんに好かれていると思える自信は直結して湧くものなのか。
いやそもそも、自分が愛されない存在だなんて一度も思い至ったことがない人なんだろう。
親や周りの人々に愛され、敬われ、時には特別扱いされながら今まで生きてきたはずだ。
それは至極単純で当たり前の想像だった。
人間は誰しも発する言葉の選び方や抑揚や声や姿勢や目線でその人物を推し量る。
例えば声が小さく、言葉尻が濁り、抑揚がなく、会話しながら目線の合わない人物がいれば、そのすべてが自信のなさの表れだと思えるし、