健琉が部署に戻ると、自席に座ってマニュアルに見入っている芽以が目に入った。

背筋を伸ばし、丁寧にページをめくっている。

「ちゃんと目を通したか?」

健琉が隣の席に腰かけると、

「はい、不明な点にマーカーと付箋をつけてみました。ここなんですけど、これってどういう意味なのでしょうか?」

芽以は、オフィスチェアに腰かけたまま健琉に近づくと、頬がくっつくのでは、というほどに顔を近づけてきた。

シャンプーだろうか?甘いフローラルの香りが健琉の鼻をくすぐる。

健琉が距離を取ろうとして移動すると、芽以も同じだけ移動してくる。

「ち、近いだろ!」

しばらく我慢していたが、胸に沸き上がってくる訳のわからない感情に耐えきれなくなり、健琉は芽以の肩を押し退けた。

「ごめんなさい。」

芽以はシュンとして、こうべを垂れた。

叱られた犬のようでおもしろい。

「私、小学生の弟がいるんです。いつもこのくらいの距離で話をするのが癖になっていて、友達にも距離が近いっていつも怒られるんです。」

芽以は、幼稚園から大学まで一貫校である女子校に通い、周りにいる男性といえば教師、父親そして15歳離れた弟だけだった。

武士道を愛する父は厳格で、芽以にとっては遠い存在。

弟は溺愛の対象。

見かけが童顔な芽以は、女子校でもマスコット的なポジションであり、同級生にも先輩にも甘やかされていた。

ベタベタと触ったり、抱き合ったりするのが普通だった女子校のノリは、芽以の他人に対する警戒心を乏しくさせていった。

学校は運転手の送り迎えであったため、満員電車で痴漢に会うこともなく、男性から追いかけられたこともない。

これまで、男性を警戒する機会が与えられていなかったのだ。

「それで、どこだ?」

「ええと、ここです。」

「だ・か・ら! 近いって言ってんだろ」

「ご、ごめんなさい。」

こんな二人のやり取りが、昼休みになるまで繰り返されたのは仕方のないことでもあった。