ストレッチが終わると、子供たちは誰からともなく窓際に走り寄り、バーレッスン用のバーを運んで組み立て始めた。

レッスンルームは全面ガラス張りになっていて、待合室から見学できる。
乃亜のバレエのレッスンはよっぽどのことが無い限り、いつも最後まで見学するようにしている。
今日は珍しくみちか以外の他の見学者が少なかった。

バーレッスンが始まると、乃亜の表情が途端に固くなる。

「乃亜ちゃん、左足前5番ですよ!ひ、だ、り、あ、し!」

先生から注意を受け、乃亜は戸惑い動きが止まる。
毎回の事だった。
乃亜はバーレッスンが苦手だ。
みちかは息を吸い、ため息をつくつもりが思わず小さな欠伸が出る。

昨夜は一睡も出来なかった。

悟が自分以外の別の女性と深い仲になってしまっているかもしれない。
それはみちかの頭の中で、考えれば考えるほど、これまでの日々が裏付けとなって真実味を帯びていくのだった。

私と眠らない帰りの遅い彼が、いつもかかさず素敵なスーツと香りをまとい休みも取らずに出かけていく理由。
疲れた顔ひとつ見せずに。

昼間だというのに、また悪い考えが膨らみ動悸で胸がつかえるような感覚にみちかが陥った、その時だった。

「あ、友利さん。」

顔を上げると、見慣れた女性がニコニコ人懐こい笑みを浮かべ立っていた。

「あら…。寺田さん、こんにちは。」

同じ雪村幼稚園の年長児で、この時間にバレエのレッスンも一緒になる寺田リンの母親の由花子だった。
顔立ちも服装も派手な美人の寺田由花子とは、話しているうちに同じ年だという事が少し前に分かった。
彼女は、みちかが40歳だなんて信じられないと驚いていたが、みちかにとっては自分より寺田の方がよっぽど若く見えると思う。
いつも元気で、時代の流れに乗っていてほんの少し押しが強い。
悪い人でないことは、みちかもよく分かってはいた。

「なんか久しぶりに会った感じよね。」

みちかの座るソファに腰を下ろしながら、寺田由花子は長い髪をかきあげた。
母というよりも女、という形容詞がよく似合う。
この人の色褪せない色気は何なのだろうと、みちかは思う。

「そうよね。久しぶりかも。」

「リンのお迎えはいつもお姉ちゃんに頼んでいるからね。ねぇ、そういえば少し前に見かけたの。いつだったかなぁ?友利さん、乃亜ちゃんとサンライズの本部から出てきたけど、もしかしてあそこのお教室に通っているの?」

「え…、あ、えぇ。サンライズには通っているけど…。」

顔色を変えずに答えたつもりだったけれど、みちかは内心動揺していた。
いつの間に見られていたのだろう。
寺田は幼稚園では顔が広くかなりのお喋りだ。
雪村幼稚園では、小学校受験をする子どもはあまりいないので、乃亜の受験の話しは誰にもしていなかった。
話しても良い顔をされない事を分かっているからだ。
だからこそ、この人には特に知られたくなかったのに。

「やっぱり乃亜ちゃんてどこか受験するの?」

「え…、あ、うん。一応ね。」

寺田は大きな目をさらに大きく見開き「そうなんだぁ。乃亜ちゃんならどこでも受かりそうじゃない?」と声高に言った。
みちかはとんでもない、と、首を横に大きく振って見せる。

「私の姪っ子が今、年中でやっぱり受験を考えてるみたいでサンライズに行こうか迷ってたけど。ねぇ、乃亜ちゃんて難しい所を受けるの?」

「志望校は…。まだ特に決めてないの。」

「あら、そうなの?受験てもうすぐなんでしょう?大丈夫?」

みちかは苦笑いをして見せた。
その時「おぉー!由花子ちゃん久しぶりー!」と、他の母親が入ってきて寺田由花子と盛り上がり話し出した。

みちかはそっと立ち上がり、バレエ教室を出ると家に向かって歩き出した。