「友利さん居なかったの?」

体育館に戻って来た百瀬に、関崎が心配そうに耳打ちをする。
模試の終わる時間になっても友利みちかが戻らないので百瀬は心配になり関崎に声をかけて体育館を飛び出した。

「会えたんですけど、ちょっと今来れない状況で…。」

百瀬は小声でそれだけ伝えると急いでマイクを持った。
子供たちはすっかり綺麗に並び体育座りをして、一斉にこちらを見あげている。
母親達も後ろで無駄話もせずに待っている様子だ。
百瀬は遅れた事を詫び、今日の模試の全体の評価と今後の課題を説明した。


母親と帰って行く子供達を体育館の出口で見送りながら、百瀬は関崎を手招きした。

「友利さん具合が悪いみたいで、医務室で休んでもらってるんです。ちょっと様子を見て来たいので、その間、乃亜ちゃんと遊んでもらって頂いてもいいですか?」

「そうなんだ。宮部さんに行ってもらったら?」

女性スタッフの名前を口にした関崎に、百瀬は小さく首を振った。

「俺、行ってきていいですか?これ終わったら。」

「え…、別に、いいけど。」

何か言いたそうな関崎の視線を感じながら、気づかないふりをして、「百瀬先生さようなら!!」と、帰って行く子供たちに笑顔を向け手を振る。
関崎が乃亜の所まで駆け寄り、母親の事を説明している姿を横目で確認しながら、百瀬は挨拶を繰り返した。

やがて乃亜以外の全ての受講生が居なくなると、百瀬は体育館を出て階段を降りた。

友利みちかは間違いなく自分を待っている、根拠のない確信が自分の中に何故かあった。

顔色がとても悪かったけれど、熱中症とか体調不良ではない気がする。
涙の理由は分からないけれど、受験に関する事でも、たとえそうでなくても自分は今彼女に必要とされているのが分かった。

百瀬は、友利みちかの居る教室を小さくノックして数秒待つとドアを開けた。

「友利さん。入りますね。」

なるべく優しい声で名前を呼ぶと、パーテーションがそっと開いて友利みちかが現れた。

その顔を見て百瀬はホッとする。
そこには余裕をたたえたいつもの彼女が居た。
少しはにかんだ表情を浮かべて。

「大丈夫ですか?」

「はい。ご心配おかけして申し訳ありませんでした。」

「良かった…。お顔色も良くなりましたね。」

友利みちかに近づくと、ほんのりと甘い香りがした。
さっきは必死だったから、気づいていたけれど意識する余裕が無かったのだ。
それはいつもの彼女からは感じた事のない甘くて深い香りだった。
脳が痺れて胸が高鳴る、何もかも手放したくさせるような浮遊感のある香り。

「あんな姿をお見せしてしまって…。恥ずかしいです。乃亜は、大丈夫でしたでしょうか。」

「関崎と体操をしてます。乃亜ちゃんは模試もしっかり出来ていましたから、ご心配ないです。今日の様子は、動画で後日ご覧いただけますので。」

友利みちかが心からホッとした表情をした。
さっきは勢いで手を握りしめてしまったけれど、どうしてそんな大胆な事が出来たのか自分でもよく分からない。

「友利さん、あの、これ僕の携帯番号です。もしお困りの事があったら、いつでもご連絡してください。会社の携帯より繋がりやすいので…。」

百瀬はポケットの名刺ケースから、一番上の名刺を差し出した。
何かあった時のために、1枚だけプライベートの携帯番号を書いて持っていて良かった、と思った。
友利みちかはそれを両手で受け取った。
彼女の自分を見つめる瞳が潤んでいるのを見て、思わず口元が緩んでしまいそうになる。
彼女は本当に可愛い、11歳も離れた大人の女性なのに、何故こんなにも可愛いのだろう。

「ありがとうございます。」

友利みちかの両の手の中に、自分の名刺が大切そうに包まれているのを見て百瀬は温かい気持ちになった。

「乃亜ちゃん、こちらまでお連れしましょうか。」

「いえ、私も体育館に参ります。関崎先生にもお礼をお伝えしたいので。」

百瀬は友利みちかと教室から出ると、並んで体育館へ続く階段を登った。