「偏差値は?」

みちかの様子に気づいたのか、悟が少し優しい声で言った。

「え…?」

小学校には偏差値はない。
悟もそれは知っているはずだ。
みちかが戸惑っているともう一度悟が言った。

「付属中学校の偏差値。ルツ女に比べてそこはどうなのかなって。」

前髪の隙間から、悟の丸い目がみちかをじっと見つめている。

「あ、えっと…。」

みちかは咄嗟にテーブルの上のスマートフォンで大手塾のサイトを開いた。
あまり詳しくはないが、中学受験に強いという塾の名前をいくつか耳にした事がある。
県内の私立中学校の偏差値一覧を探し、ルツ女と聖セラフの名前を見つけた。

「ルツ女が61で、聖セラフは…、54。」

「54か…。僕はそこを第一希望には、ちょっとできないかな。」

そう言って、悟が立ち上がる。

「どこを併願校にしても構わないよ。そこは君に任せるから。」

ご馳走さま、と小さく言い、悟はリビングを出て行ってしまった。
声にならない沢山の言葉が、喉元につかえて行き場を無くす。
間もなく悟の部屋の扉が閉まる音が聞こえ、みちかは動悸を落ち着かせるようそっと自分の胸に手を当てた。

いつもこうだった。
悟はみちかが心の声を話す前に目の前から去ってしまう。
新聞やテレビに気をそらしてしまうのだ。

いや、日頃から忙しく悟には自分の時間が無いのもよく分かる。
自宅ではリラックスして欲しい、そう思っている。

みちかはそっと立ち上がり、キッチンへ行き食器を全て洗うと冷蔵庫を開け中へ手を伸ばした。
冷たく固い缶を握りしめ、冷気で冷えた腕でそれを手繰り寄せる。
ダイニングテーブルに座り、音を立てゴールドの缶を開けると、グラスに注いで一気に飲み干した。

第一志望校は変わらずルツ女だ、そう心の中で呟き唇を噛み締める。

きっと自分は楽をしようとしていたのだ。
難関と呼ばれるルツ女の試験から逃げたかったのだ、きっと。

酔いがまわるほどに、頭の中が、ルツ女を目指す事を決めたあの日に時を巻き戻すような
感覚に陥っていく。

5歳の娘に、学校の良し悪しなどまだ分かるまい。

みちかはあの、脳裏に焼きつく百瀬優弥の甘い笑顔をかき消すように、何度となくグラスを飲み干した。