「先生はこちらにお一人で?」

「はい。ここ、元実家なんです。1人で住むにはちょっと広いんですけどね。」

「そうだったんですね。教室のお近くにお住まいだったなんてびっくり。」

ふふ、と、みちかが笑うと百瀬も笑った。

「近いですよね。マンションから会社が見えるのでたまに嫌になります。」

エレベーターが止まり、扉が開く。

「あ、小雨になってる…。」

手を繋ぎ百瀬の後を歩きながら、みちかは呟いた。
雨が大分弱まり、ちょうど雨雲が過ぎ去っていく所だった。
突き当たりの玄関ポーチのある部屋の前で百瀬が足を止めた。

「晴れてきちゃいましたね。」

照れたようにみちかを見て百瀬が笑った。
その表情は、とってもあどけなくて、あぁもう、塾の講師とお客さんではないのだ、とみちかは気づいた。
ひとまわり年下の可愛い男性と人妻の自分がこんな風に手を繋いでいるなんて気恥ずかしい。
握りしめたままの手で強引に連れ込むわけでもなく、百瀬は無邪気に笑顔で佇んでいた。
そうかぁ、全てこちらに委ねられているんだなぁ、とみちかは思った。
雨が止み、空は晴れ間さえ出てきてほんの少し暖かく感じる。
百瀬の部屋はとっても日当たりが良さそうだ、とみちかは思った。

「雨も止んだので、乃亜のお迎えに行かないと…。」

みちかは笑顔で言った。
とってもとっても残念だけど私にはそれしかない。

「そうですね…。念のため、傘、お持ちになりますか?」

百瀬が残念そうな顔をして言った。

「ありがとうございます。でも、お借りしたらきっとまたお会いしたくなってしまうから、遠慮させてください。」

みちかはそっと、繋いでいた手を離した。

「こちらで失礼します。先生、ありがとうございました。お元気で。」

頭を下げて、百瀬に背を向けみちかはエレベーターへ向かった。
前を向いて振り向かず、元来た道を戻った。


静かなリビングに冷蔵庫のモーター音が小さく聞こえている。
読んでいた本を中断して、ダイニングテーブルからみちかは吸い寄せられるように冷蔵庫へ向かった。
冷気の中、ビールに伸ばした手をふっと止めて代わりに赤いエキスの入った瓶と炭酸水を取り出した。

何かあればいつだってお酒に頼ってしまう自分が本当は嫌だった。
一度に飲む量も確実に増えてきているせいか、身体が辛い日も多い。
悪いお酒はもうやめよう、と思った。
もうすぐ22時だし、柘榴ジュースを飲んで眠ろう。
悟は今ごろ、あの女の子とホテルにいるのかもしれない。
心がざわざわしないと言ったら嘘になる、でもきっと考えてもきりがないのだ。
私にはもう、どうすることもできない、好きにすればいいと思った。
百瀬の手の感触を思い出すだけで、胸が暖かくなって嫌な気持ちを忘れさせてくれる、そんな気がした。

明日の朝は、乃亜の大好きなハンバーグを作ってお弁当に入れてあげよう。
残り数ヶ月の幼稚園の毎日を、楽しく過ごしてほしい、それだけを考えて過ごそうとみちかは思っていた。