その猫に、乃亜は『モモ』と名前を付けた。
由来は百瀬に顔が似ているからだと言う。
やんわりみちかは反対したものの乃亜に押し切られモモに決まってしまった。
猫のお世話で忙しくはなったけれど、名前を呼ぶ度に百瀬を思い出してしまうので、忘れるどころではなかった。
その上、モモが来て数日経ったある日、みちかはある事に気づいてしまったのだ。

ルツ女の過去問題集や説明会資料など処分しようと整理をしていたら、以前、百瀬が貸してくれた、ルツ女の文集が一緒に出てきた。
百瀬の姉の大切な文集なのに、返し忘れていたのだった。
すぐに返さなければと思う半面、百瀬に会う事には躊躇いがあった。

もう二度と会えないから忘れようと思えたのに、また会えるかもしれないと思うと忘れようと思う気持ちは揺らいでしまう。
それどころか会えるかもしれない期待で気持ちが高ぶる。
怖いと思った。
百瀬の顔を見たら今度こそ、気持ちが溢れてしまうかもしれない。

悩んだ末に、手紙を添えてサンライズ体操教室へ送る事に決めた。
辛い選択だけれどそれしかない。
今さえ我慢して乗り切ればきっと忘れられる、そう思った。

その夜、みちかは百瀬に手紙を書いた。
文集を返し忘れてしまった事のお詫びと改めて、乃亜がお世話になった事のお礼。
書いていたら色んなことを思い出して、涙が出た。
こうやってちゃんと忘れようとしている自分は正しい。
手紙に封をしながら、百瀬への気持ちにも封をしたような気がした。
それはとても良い事だと思っていた。
その時までは。

既に時計は24時近いし、悟は今日も夕飯は食べないからもう寝よう、そう思って何となくモモが眠っているゲージを見た。
その中に何故かモモが居なかった。
リビングを見回しても見当たらない。
音もなくどこへ行ってしまったのだろう、みちかは立ち上がった。
悟が帰宅した時に開けたリビングのドアがそのままになっている事に気がついた。
ここから抜け出して、他の部屋に行ってしまったに違いない、そう思いながらリビングを出て家中を探した。
すると悟の部屋のドアが少しだけ開いていた。
覗くと暗闇でガサゴソと音がする。
部屋の電気をつけると案の定、モモがベッドの上に居て、自分の尻尾に戯れて暴れているところだった。

「モモちゃん、ここに来たらダメよ。」

みちかは近寄り暴れるモモを両手で持ち上げた。
爪が引っかかり、シーツが少し持ち上がる。
その瞬間、ベッドに無造作に置かれていた悟のスマートフォンがちょうど着信で震え、思わずみちかは画面を目にしてしまった。

『友利さん、先日は傘ありがとうございました。明日またお会いできるの楽しみにしてます。夜はホテルで二次会したいな』

画面には、南 可那という名前でメールの通知が表示されていた。
その文面と、最後に添えられたハートマークに思わずみちかの鼓動が早まる。

「痛い…。」

その時、抱っこしていたモモが小さな爪でみちかの手を軽く引っ掻いた。
慌ててリビングに戻りモモをゲージの中に離した。
ソファに腰を下ろすと、心臓がドキドキしているのが分かった。
悟はまだ、シャワーを浴びている。

南可那というメールの相手は、例のあの女の子に違いない。
悟が傘を貸したのもやっぱりあの子だったのだ。
明日の宿泊も一緒だなんて、その上ホテルで二次会をしようだなんて、なんて大胆な誘いなんだろう。
悟がどんな風に返信するのか考えると吐き気がした。
ホテルの部屋で2人きりで飲んだりするのだろうか。
明日は私たちの結婚記念日なのに。

みちかは悟と顔を合わせる前にリビングを出た。
そして乃亜の眠るベッドに向かった。
モモが引っ掻いた傷がしくしく痛んでいる事に気づいたけれど、手当てをする気になれなかった。
あぁ、きっと今夜も眠れない、そう思いながら寝息を立てる乃亜の隣にそっと潜り込んできつく目を閉じた。