その夜、悟が帰ってきたのは22時半頃だった。
玄関のドアが閉まる音がしたので、みちかは読んでいた本をテーブルに置き、タオルを手に持ちリビングを出た。

「おかえりなさい。」

少し前から大雨が降ってきたので心配していたけれど、案の定、悟のスーツやカバンが濡れている。
カバンを受け取りタオルを手渡しながらみちかは悟の髪も濡れている事に気づき不思議に思った。

「悟さん、傘、忘れてきたの?」

「あぁ…、部下の子が傘がなかったから貸したんだ。途中から僕だけタクシーで帰ってきたからね。」

髪や服を拭きながら、悟が答える。

「そうだったのね。送別会だって言っていたからもっと遅くなるのかと思った。雨、大変だったわね。」

その部下の子が例の彼女なんじゃないかと、内心気にはなったけれど、さらっと流し穏やかに話した。
雨の中、いつもより少しだけ早く帰ってきた悟に対してイライラしたりするのは良くない。
それに今日は嬉しい日なのだから。

「乃亜、良かったね。」

靴を脱いだ悟がふっと笑顔を見せた。

「うん。乃亜も喜んでいたわ。」

「入学手続きは?」

「今日、行ってきた。」

「そっか。任せきりで悪いね。」

バスルームへ向かう悟を見届けて、玄関に残ったみちかは濡れた革靴を手に取った。
良かった、悟も聖セラフへの進学が決まった事にホッとしている。
みちかは革靴を拭きながら、安堵の気持ちが広がっていくのを感じていた。


「乃亜、合格したら何が欲しかったんだっけ?」

「あのね、猫ちゃんが飼いたいんだ。」

「犬じゃなくて猫?」

「うーん…。迷っちゃうなぁ。」

ダイニングで向き合って朝食を食べながら、乃亜が嬉しそうに悟と話している。
そういえば、小学校が決まったら何でも好きなものを買ってあげると随分と前から2人で約束をしていた。
ずっとペットを飼いたかった乃亜は、ついに猫を買ってもらうようだ。

「ねぇ、いつペットショップに行けるの?」

「今週と来週はパパお仕事があるから、その次の週かな?」

「えー…。そんなに待つの?」

乃亜が困った顔をして、みちかを見上げる。
食べ終わった食器をトレーに載せていたみちかは手を止めて、笑顔で言った。

「じゃあ、今日お教室の帰りに少しだけ見に行ってみる?」

「本当!?やったぁ!」

乃亜が両手を上げて喜んだ。

「じゃあ、猫か犬かよく考えておいて。乃亜の好きな方でいいから。」

立ち上がり、リビングを出ていこうとした悟がふと立ち止まり振り返る。

「あのさ、来週、2日間プレス発表会があるから木曜の夜はホテルに泊まるよ。」

「え…、木曜日?」

みちかはカレンダーを見た。
来週の木曜日は30日だ。
思わず悟の顔をじっと見てしまった。

「あれ…何か予定ある?」

悟の戸惑っている様子を見てみちかは慌てて首を横に振った。

「何でもない。大丈夫。」

「そう、じゃあ、よろしくね。」

リビングを出て行く悟の背中を無言でみちかは見送った。
今日も悟は休日出勤をするらしい。

「乃亜ちゃん、食べ終わった食器をお片づけしましょうね。」

残りの食器を片付けながら、みちかは小さなため息をついた。