父が帰ってきたのは、中学三年の冬頃だった。
そして、今度はすぐに、カナダへ旅立って行った。

兄二人だけをを連れて。

アタシは、父の弟である叔父の家に預けられた。

叔父夫婦とその娘(当時二歳)は、暖かくアタシを迎え入れ……、

って、何でよ?!何でアタシだけ?どーして??

叔父さんの話によると、父はアメリカでの格闘行脚のさなか、ストリートファイターとして様々な人々に逢い、話を聞いたらしい。

そのなかには、闘いがもとで半身不随になったり、腹に入った蹴りが災いして、不妊性になってしまった女性もいた。

『京子には、女の子らしい幸せつかんでほしい』

そう、父は語ったという。

えー、今さら?今さら云うかな?

それを云うなら、今までの人生、返して欲しい。

その辺の小学生は、雪山にこもって、道着にはだしで演武や型の修練をしたりしないと思う。

中学生だって、遠泳で無人島まで渡り、日の出と共に魚釣りや、山菜採りをしながら飢えをしのぎ、木刀で素振りの稽古などする奴は、珍しいんじゃないだろうか。

これが自分の人生だと、思っていたから厳しい試煉にも耐えられたのだ。

閉鎖された父の道場の弟子や、兄の生徒は、師の破天荒ぶりには慣れきっていたが、怒る者もいた。

もちろん、アタシも納得いかない側だ。

父の師匠にあたる老師も、無謀な勝負を戒める人だったため、この騒ぎを不快に思ったらしい。
とばっちりで、アタシが老師の道場への出入りを、禁止されてしまった。


全く納得いかない。
格闘技人生の道が、いきなりすべて閉ざされてしまったような気がした。

そこで、今まで入ったことがなかった、学校の部活に入る事にした。

幸い、叔父の家から通える範囲内に、運動部の活動が盛んな高校があった。とりあえず大急ぎで、受験に間に合わせた。

……ものの、受かる気はしなかった。父と兄たちにほぼ見捨てられた状態だと思っていたので、茫然自失。勉強どころでなかったのだ。

合格通知が届いたとき、神様っているかも。これですぐ格闘技を再開できる、続けられる、身体を鈍らせることもない、と思った。

ところが、フタをあけてみるとこの高校、運動部の数が多いだけで、生徒らはてんで覇気が無かった。こういうのは活動が盛ん、とは言わない。

『こんなの、ハナシになりません』

剣道部を見学した時、当時の部長にそう言った。

『では、手合わせ願おう』

かなりムッとした表情で言われた。しかし、アタシはその何十倍も、父の事で頭にきている状態だった。

男子部、女子部の部長まとめて叩きのめし、ついでに猛者といわれた計6名も、同時に叩きのめした。
そのなかに、次期部長のうつわと名の知れた、黒川さんがいた。

で、黒川さん、いきなり現れたチビの一年女子に勝ちを取られ、悔しくてたまらず、同学年で親友であった、柔道部の西岡 一郎に(涙ながらに)ちょっと愚痴ったらしい。

次の日の放課後、柔道部数名が、わざわざアタシのクラスまで来た。

部長の果たし状を持って。

もともと、こちらから一応、見学に行くつもりだったので、手間がはぶけた。

とりあえず、まだ腹が立っていたので、出てきた人数、倒しまくり投げまくった。

次の日、登校するとなんだか、クラスの雰囲気がおかしい。



なんか、よそよそしくない?

放課後になると、教室の入り口に何人かの先輩が立っていた。空手部の部員だと言う。

そりゃ、当然、伺いました。

ここに来て手抜きしたら失礼なので、きれいに技決めて、挑戦者全員、片付けた。見ていた部員の中には、自分が負けたわけじゃないのに、泣いてるコもいた。

聞けば、

『わかんないけど、なんか感動した』

という。



こっちがわからない。

それから次々、毎日のように武術、格闘技系の各運動部からの果たし状?が、持ち込まれた。

カポエラ同好会、ボクシング部、ムエタイ研究会。
少林寺拳法部や合気道部まで

『あのう、ウチの部でも戦って頂けますか?』

『はい?』

いつの間にか、会場は体育館と決められていた。

マットや畳が敷かれ、ロープが張られ、見物に来る生徒が増えた。先生もいる。

放送部が数名、ビデオカメラと、集音マイクを持って来ている。


これは、一体なにごと?どういうこと?

アタシが対戦相手を投げ、拳が決まるたび、ワッと歓声が上がる。
きゃあきゃあ、飛びはねてる女子もいた。




……みんな、退屈してたんだね。


どのくらい勝負を受けた後だろうか。

ある日アタシは、その場にいたみんなに胴上げされた。

そして、たった一人の一年生女子が、格闘技系の運動部を全制覇したというウワサは、校内を駆けめぐり、

アタシは先輩たちに、

『お嬢』
と、親しく呼ばれるようになっていた。

そして、文化部や、帰宅部の連中には、
『ウルフ・ガール』『ルー・ガルー』

と、あまり有り難くないアダ名で、呼ばれるようになっていた。


カンベンして欲しい。

アタシはただ、まともな部活がしたかっただけなのだ。

一年の頃のこの騒動でアタシは、どこの部へも出入り自由になった。

校長以下、先生方は、
『生徒の自主性に任せる』

とのことだ。のどかな校風でホント、良かった。