砂の浮いたアスファルトを照らすライトを消し、二人は車から降りた…
アイランドパークのヨットハーバーに佇む、サーフカラーのセイリングボートがシェロの葉陰から揺れる星空を映しているかの様に時折、光って見える。
僕は彼女に缶ビールを手渡すと話を続けた。

「ここは意外と知られていないプライベートスポットでね」

「こんな素敵な場所なのに?…」

光のない音だけの海を背にドアミラーに手を添え、車にもたれた彼女の指先に香るメンソールの煙がワルツの様な風の旋律に舞う。
同僚としての彼女の性格は、よく知っているつもりでいた。
しかし、以前と比べると明らかに様子が違う。
その違和感の核心に触れる質問のタイミングを迷っていたが、切り出したのは意外にも彼女の方だった。

「今ね、悲しい恋をしてるの」

笑って答える彼女ではあったが、無邪気を装う心の強さは、涙で傷ついた悲しみの裏返しであり、切ない痛みに震える自分へのモノローグでもある。

「問題は彼自身ではなく、その彼女の事なの」

僕は言葉を選びながらも、素直な想いを告げた。

「僕でよければ最後まで話を聞いてあげるよ」

「優しいのね…でも、この問題を深刻で複雑にした原因の全ては私の責任にあるから…」

だがその余韻は、僕の誘いを拒むものではなかった…

「解決を目的としない弱さとプライドとの駆け引きの中で、その糸口は次第に埋もれてしまったのかも…
身近過ぎて気付かなかった優しさの様にね…」

そして彼女はその重い口を開く。
それは意を決した彼女が誰にも話す事が出来なかった心の空白に、自らナイフを入れる事を意味していた…

「それは絵に描いた様な素敵な再会から始まったの。
衝撃的な出会いは運命を変える程の出来事だ
ったわ。
それは彼も後日、同じ話を私に打ち明けてくれた」

断片的な想いが過去形の言葉で描かれていく…

「私は会いたいと思えばタクシーを使ってでも会いに行く女なの。
彼の方だって、仕事でどんなに遅くなっても車を飛ばして会いに来てくれたわ。
それが例え、夜中の2時であってもね…」

その眼差しにうるむ記憶の色は、涙に映る雨の様に過去を滲ませていく…

「信頼される事への慈しみを糧にしてきた彼女との絆は愛の様に脆くはない。
とまで聞かされていた…
『フレームで切り取られた形だけの愛は飾りに過ぎない』
という言葉の迷宮に心を踏み入れてしまったの。
この愛に始まりがあるとするなら二人が出会う以前から、すでにこの愛は終わっていたのかもしれない…」

「その確執が原因と責任を?」

「…彼女は重い病を患ってるの…
なのに彼と接する際に見せる、誠実で裏の無い心の美しさは私には無い理想の性格…
それは献身的に尽くす、健気で素直な表情から見て取れるわ。
実際に言葉を交した事はないんだけど、彼と再会した時の、臆する事のない笑顔で寄り添う姿を見てそう実感したの。
それでも彼は約束を守る為と言って一線を引いてくれたわ。
恋人としての私と、友人としての彼女、という…」

「それは結婚を前提とした付き合い、という意味の?」

「あなたも知っている通り私にはハンディがあるの。
でも彼は、その全てを認めた上で私を受け入れてくれた。
私も彼女の存在を承認した上で全てが始まったから彼だけを責める事は出来ないの」

「彼にとっては好都合な話だね」

「でも彼は将来に向けてのビジョンや、その為に必要な時間までも『俯瞰的な例え』という言葉を代用して真剣に語ってくれたわ。
確かに抽象的な面は否めないけど、その彩色画の様な未来が決められた福音であるなら、約束と誓いは同じ意味を持つの。
その立場が彼女の病を同情する心を狂わせ、いつしか優越感というレッテルに張り替えた仮初めのフィアンセを演じていたのかもしれない…
結局私は不確定な余裕と引き替えに、彼女との今後の関係を含めた、それまでの過去の一切を白紙に戻してしまった…」

彼の施した布石の定義と彼女が提唱したシナリオが異なる画策であるとするなら、ジレンマの本質は未来の縮図に伏せられた、過去の一端にあるのかもしれない。
小説の様なシルエットの中で、その台詞に彼女の繊細な溜め息が映り込む。

「波を重ねる度に描かれる砂絵の様に、甘い幻影に足を掬われただけであれば、彼とのエンドロールを巻き戻すだけでいい…
でも君はいつも彼に試されていたから、それが出来なかった。
理不尽な口実さえも自らを重ね正当化する事で、その危惧さえ気付かない振りをしていたから。
代償のない対価と優しさの裏にある合意…
作意的で周到な彼の流儀とは心理面でアバウトな思惑を抱かせ、選択肢を打消された君を見せかけの愛で繋ぎ留める…
それは君が無意識な自己防衛の中で交した、確信犯との声なき同意だったんだ。
それが彼のポリシーであるなら男としてのモラルを疑うよ…少なくとも僕はね」

彼女は無言で僕の話に聞き入った。

「そうよね…」