3


 目を覚ましたのは、放課後だった。
 だるかった身体もある程度良くなり、携帯で時間を確認すると帰るのに丁度頃合だったため、僕は帰ろうと立ち上がった。
 だがその時、近くに人の気配を感じ、その方向に目を向けると、フェンスの向こうに人影を捉えた。
 そこには、やまもんがいた。
 おそらく僕が寝ている間に屋上に入ってきたのだろう。
 なぜやまもんがここにいるのだろうか。いや、そんなことはどうでもいい。
 屋上で、しかも落下を防ぐために設置されたであろうフェンスをわざわざ越えるなんて、そんな危ない場所に立つのは、考えたくもないが、目的は一つしかない。
「お、おい! 何してるんだよ!?」
 僕は本日二度目の疑問形の言葉を発した。その声量は一度目を遥かに凌駕していた。
「あ、目が覚めたんだ」
 やまもんが無表情に、冷たく言った。
「邪魔しないでね」
「邪魔ってなんのことだよ。もしかしてやまもん、死ぬ気なのか?」
「だからさ、その渾名で呼ばないでよ。何度言えばわかるの?」
 やまもんはやはり無表情のまま言った。
「今はそんなこと言ってる場合じゃないだろ」
 僕はフェンスをよじ登りやまもんの説得を試みた。
 僕の足がフェンスを越えた。
「こ、来ないで!」
 僕がやまもん側の方に着地すると同時に彼女が大声で言った。
「こっち来たら、本当に飛ぶから」
 やまもんの言葉に動揺し、足が震えた。
「――ここ、結構怖いね」
 静かに言ったつもりだったが、一歩間違えれば命を落としかねないこの状況に緊張し、声が上ずってしまった。
 こんな怖い場所にいたのかよ、と違う意味でやまもんを尊敬した。
「なに? 馬鹿なの? あんたも死にたいの?」
 やまもんは心底呆れた表情で言った。
「馬鹿なのは、昔からだよ」
 僕は言いながらそのままやまもんの近くに寄ろうと足を進めようとした。彼女はそれを気づいたのか、突然両手を大きく広げた。
「今度は、本当だから。本当に、飛び降りるから」
 やまもんの言葉は本気そのものだ。これ以上近づくと本当に飛び降りてしまいそうだ。それでも、なんとかしなくてはならない。
「僕が話を聞くし、僕がやまもんの味方になるから。というか、いつだってやまもんの味方だから。だから、だからこんなことやめてくれ」
「嘘をつかないで!」
「嘘じゃないよ」
「――私のこと、煙たがったくせに、そんなの信じられるわけないでしょ!」
 やまもんは僕の言葉を跳ね除け、冷たく言い放った。
「それは――」
「なんにも知らないくせに、知ろうともしなかったくせに、そばに、いてくれなかったくせに、今更勝手なこと言わないでよ。幼馴染面しないでよ! 迷惑なんだよ! 泣き虫陽ちゃんに何ができるの? 何にもできないでしょ? だったらもう黙って私の前から消えてよ!」
 やまもんが言葉を羅列する。言葉の一つ一つに本気の恨みが込められていた。
 いや違う。
 恨みもあったが、悲しみも混ざっていた。
 言葉が出なかった。
 僕は自分に対し、大きく失望した。
「――約束、したのに……」
 やまもんが泣くのを堪えながら言った。
 ――約束したのに……。
『ずっと一緒だよ』
 頭の片隅に眠っていた幼い頃の記憶が蘇る。
『私がピンチになったら――』
 そばにいてやれなかった。
「ご――」
「また謝るつもり? そうだよね、謝らないとだよね。だってそれが、それが泣き虫陽ちゃんだもんね」
 やまもんが見下すような口調で言った。
 僕は今までの自分の行いを思い返して後悔し、それ以上に約束を破った自分を激しく憎んだ。
「ごめ、ん……」
 僕は涙を流しながら、やまもんに今までのことを謝った。
「本当に、ごめんなさい……」
「さっさと出て行って!」
 やまもんが叫ぶ。
 つまらない理由でやまもんを避けた。彼女が辛い時に僕はそばにいてあげられなかった。それ故彼女は飛び降りようとしている。死のうとしている。
 ――そんなの、嫌だ!
「嫌だ!」
 僕は涙を拭わず真っ直ぐやまもんを見つめながら言った。思った以上に大きな声が出ていた。
 こんなに大声を出してやまもんに言葉を投げかけたこと今まで一度もなかった。
「今更、今更幼馴染面しないでよ! 何度も同じこと言わせないでよ!」
 やまもんがヒステリックに叫びながら言った。その言葉にグサリと胸を、心臓を突かれる感じがした。
 自分から離れていったくせに、相手から拒絶されて僕は傷ついているのだ。
 彼女も、きっとこんな気持ちだったのだろう。
 そしてらその気持ちにさせたのは、紛れもなく、僕なのだ。僕自身なのだ。
「僕が悪かったんだ。やまもんの言う通りだよ。やまもんが苦しんでいるなんて、辛いなんて知らなかった。知ろうともしなかった」
「よく分かってるじゃない」
 やまもんが静かに言った。その声色が少しだけ和らいでいるように感じだ。
 気のせいかもしれないけれど、それが何よりも嬉しかった。
「だから、聞かせてよ。全部受け止めてみせるから。だから――」
 僕はやまもんを真っ直ぐ見て言った。
「やまもん、僕は――」
「――っ!」
「やまもん?」
「さっきからやまもんやまもんって」
「どうしたの? やま――」
「その渾名で呼ばないで!」
 さっきの僕の大声を遥かに上回る音量の声が屋上全体に響き渡り、それと同時にやまもんが頭を抱えながら泣き崩れた。
 突然のことで僕は混乱した。
 保健室のときも、やまもんと呼ぶと過剰に反応し、拒絶していた。
 幼馴染面されているのが嫌だ、というだけならここまで拒絶の反応は見せないだろう。一体――。
「何があったの? やま――、山本さん」
 幼少期からほぼ癖になってしまった呼び名を慌てて訂正した。
「やめてよ! やめてったら!」
 やまもんが、いや、幼馴染の少女がヒステリックに叫び、声を上げて泣き始めた。
「ご、ごめん……」
 僕はたじろぎながら謝った。
「本当に、もう嫌だ……」
 幼馴染の少女が泣きながら言った。
「一体何が、あったの?」
 幼馴染の少女からの返答はない。
 それでも、もう一度、急かすように質問をした。
「ねえ、一体何があったの?」
「――婚、するかもしれないの……」
 幼馴染の少女はどんなに耳がいい人でも聞き取れないような、か細い声で何かを言った。
「え?」
「私のお父さんとお母さん、離婚するかもしれないのよ……」
 幼馴染の少女が大粒の涙を目に浮かべながら言い、そして、その場に座り込んだ。
 ――え?
 僕は、記憶を巡らす。