その日は、言うなれば、普通の日だった。


春らしい温かさに、少し冷たい風。
気持ちのよい空気が、私は心地よく街を歩いていた。
休日だからか、いつもより人の多い駅前。私は駅前にある薬局で、シャンプーとリンスーの詰め替えを買いに来ていた。帰り道、ふと公園に視線を向けると、誰もいない公園の真ん中に、真っ白な猫が座っていた。

なんとなく近寄って、猫の前にしゃがみ込む。
 
「お前……名前は?」
“そいつ”の手は、柔らかかった。心地いい感触が、伸ばした右手に触れる。
「……お前は……良いね。私は──お前に、なりたい」
声に出た小さな願いを笑うように、目の前の猫は目を細めて、透き通った声で鳴いた。
「……首に、ネームプレートついてる。飼い猫……かな。へえ、お前、『梓』って、言うんだ。良い名前だね」
そんな独り言を並べていると、突然、猫が口を開いた。
 
「お前は、本当は何になりたい?」
 
「……え?」
「お前の本当の望みは何?」
 
周囲を見渡すが、人は誰一人いない。ゆっくりと、目の前の猫へと視線を戻す。
この猫が、喋っているのだろうか。
 
そんなことを思いながら、目を丸くしていると、猫は言葉を続けた。
「本当の望みが叶う場所があると言ったら、お前は来るか?」
「かな、う?」
「椎名雪、20歳大学三年生。一人暮らしをしていて、大学には友達がいない。毎日誰とも会話せずに一日を終えることもある」
ずらずらと、私の情報を口にする猫に不気味さを覚える。すぐに離れようと思ったが、足は動かない。理由はわかっていた。
 

この猫の言葉に、惹かれてしまったのだ。
 
「そんなお前の本当の望みを、叶えられる場所がある」
「……本当に、叶うの?」
「叶う。もちろん、いくつかの課題をクリアすることが必須条件だが、お前の望みが叶うことは保証しよう」
「……いくよ。いきたい」
私がそう言うと、猫はニンマリと笑ったように見えた。
 
「お前の願いを、言ってみな」
 
私は少し息を吸い、はっきりと、口にした。

 
「私は、自分を変えたい」

 
ずっと、思っていたことだった。
このままじゃだめだと、何度も思った。
けど、そんな簡単に、何かが変わるわけがなかった。
人を避け、一人を望むこの性格を、変えるきっかけが、私は欲しかったのだ。
 
そう言った瞬間、頭にガツンと、衝撃がはしり、意識が遠くなっていった。




そして、目が覚めると──彼がいた。
 
「俺は、三宅陽」
 
彼はそう言った。そして、瞬時に思った。

 
もしかしたら彼も、何か叶えるためにここにきたのか、と。

 
何を望み、願ってここにきたのか、少し聞きたい気持ちはあった。
だけど聞けなかったのは、それを聞けば自分も言うはめになるからだ。そう考えたのは、きっとお互い様だったのだろう。
 

時間を共にして、私の中には葛藤が生まれていた。

 
ミケとこの部屋にまだ一緒にいたい。けど、この部屋を出ないといけない。
 
 
自分の中で、何かしら変化が起きていることは自覚していた。
だけど、その変化がどういうもので、なんというのか、私にはわからなかった。そして、その答えは、この部屋を出ないとわからないものだということも、私は確信していた。
 






そして、50の部屋を出た今、私は部屋に入る前の公園に立っている。