『好きなものを言わないと出られない部屋』
 

そう、扉のスクリーンに書かれていた。
それを見た途端、ミケは満面の笑みを私に向ける。
 
「俺の好きなものは女の子と魚! 女の子は、梓みたいな子が好きだな」
 
ミケの言葉を無視して、私は部屋の右側の壁に寄りかかるように座った。
 
「何してんの?」
「休むの。悪いけどこの部屋、すぐに出られないと思うから」
「なんで?」
 
きょとん、とした顔でそう聞くミケ。私は少し視線を逸らして答えた。
 
「私、好きなもの、無いんだよね」
 
「……はい?」
「だから無いの、好きなものが。どれも普通、その線から超えるものは無い」

 食べ物も特にこれが好き、というのは無い。どれも出されれば食べる。自分から希望して何かを食べるということはなかった。これが好きだからこれが欲しい、私にはそれが無い。
 ミケは「ふーん」なんて素っ気なく返し、ニッと笑って私の隣に腰を下ろした。
 
「じゃあ、今つくろう」
「……は?」
「今、何かを好きになろう」
「……あのさ、バカなの?」
私はそう言って、辺りを見渡す。
「この何も無いところで、何を好きになるわけ?」
「えー? 目の前にいるじゃん」

そうニッコリと笑うミケに、私は眉間にしわを寄せる。
こいつはこう言いたいのだろうか。
自分を好きになれ、と。
 
「無理。むしろ嫌いだし」
 
そう手のひらを見せ、首を振ってみせる。
 
「ははっ、そりゃ参った」なんて言って笑っているミケ。そして、私の目をじっと見て、「でもさ」と静かな声で言う。
「本当に無いの? 今まで生きてきて」
「無いよ」
「本当に? 好きって感情だよ?」
「無いってば。ってか、好きっていう感情、ってなに?」
 
私がそう言うと、ミケの表情からいつもの笑顔は消えていて。少し寂しそうに見えたのは、きっと錯覚だ。
 
「触れると温かいんだ」
「は?」
「こう、ぶわーっと、優しい気持ちになる」
「優しい気持ち? なにその曖昧な気持ち。そんなのわからない」
「触れたくて触れたくて、必死に手を伸ばすんだ。そんで触れたとき、涙がでそうになるくらい安心して、その空間にひらすら居たくなる。そんな気持ち、本当にない?」
 
ミケの言葉に、一瞬私の頭に浮かんだのは、このわけのわからない白い部屋に来る前の情景だった。




『お前……名前は?』
“そいつ”の手は、柔らかかった。心地いい感触が、伸ばした右手に触れる。
『……お前は……良いね。私は──』
声に出た小さな願いを笑うように、“そいつ”は目を細めて、透き通った声で鳴いた。



頭に過った感触を思い出し、私は自分の右手を見つめた。
そして、小さく答えた。
 
「ネコ」
 
「え?」
「私は……ネコが、好き」
 
そう言うと、ミケは目をまん丸にして。そして、口元を上げ、私の嫌いな笑みを浮かべる。それと同時に、扉が開く音がきこえた。
 
「……なあ、一つ、教えようか」
「は?」

「生き物ってさ、どうしてだか……好きなものに、なりたがるんだ」

そう小さく、呟くようにいったミケ。小さな声だったが、私の耳にはしっかりときこえていて、言葉の意味も脳へとしっかり伝わった。
「……なんてな。これ、俺の持論だから、気にしないで」
「……じゃあ、あんたは女の子と魚になりたいの?」
「ははっ! んなわけねーじゃん! っと、そうなると、この持論、矛盾してるよなあ。やっぱ無し、ってことで。忘れて」
「……無理だね」
 

「まじかっ」なんて、苦笑いするミケから、私は視線を逸らし、ミケに先に進もうと促した。